「由乃さん、秋さん……」
 信じられない、といった表情で志津馬が二人を見返す。銀色の巨犬のことも彼はきちんと覚えていたようで、かるく目を見開いた。
「由乃……秋……」
 対して奏流の方は、仕方がないな、とでも言い出しそうな様子だ。むしろ大人びたようなその冷静さが、外見にはそぐわない。
「……志津馬さん、奏流、状況は全て知らされました。もっとも友典さんたちには伝わっていませんけれど、わたしたち二人は一応全貌を把握しています……そのつもり、です」
「そうよ、覚悟を決めてお縄につきなさい!」
 時代錯誤な、というかなんというか、どうにもテンポがずれた秋の台詞に一同の表情の緊迫感が薄れる。
「……秋さん、違いますよっ」
「ご、ごめん、一回言ってみたくって……」
 奏流ですらも少々毒気を抜かれた表情になっている。秋のボケは機械にすら通じているのだ、と一粋が事情を知っていたなら言ったかもしれない。
「――えーと、その話はちょっとこっちに置いといて。とにかく、今あんたたち二人が何しようとしてるかは知ってるの。で、あたしたちはそうなって欲しくないわけ。わかる?」
 どちらかがいなくなる、もしくは共倒れ――そんなこと冗談でも考えたくはないのだ。倒れるのが志津馬なら、彼らは夢から醒められないと言うことにもなるし。
「……志津馬さん、あなたにはわかりませんか?奏流の気持ちが」
 勝手に不自由な状態で生み出されて。いらなくなったら、厄介になったら、捨ててしまおうとする。
 そんな身勝手があるものか――由乃にはそれは、よくわかる。
 しかし志津馬には、その言葉は青天の霹靂だったようだ。
「……奏流の、気持ち……?」
 考えてみたこともなかった。
 人間と同じように思考し、感じ取り、学ぶ機械ならばそれは当然あっていいものだったし、現に奏流はその兆候を見せていたと言うのに。
「……気づかなかった」
 人と同じように感じるなら、確かにそれは、辛いことだ。ましてひと時与えられた楽しい夢から離れたくないと願うのも当然のこと。
 だが由乃は、畳み掛けるようにまた、言うのだ。
「なぜ気づかなかった……気づけなかったか、わかりますか?」
 なぜか?
 奏流はいつも楽しそうにしている、と思っていた。
 奏流は楽しいと感じることができると、知っていた?
 ……なのになぜ苦痛を理解しようとしなかったか、それは。
「――あ」
 信じがたい――否、信じたくないことだが。
「楽しそうだったから、だ……」
 みんなの視線を一身に集めつづける子供。
 皆に好かれている子供。
 楽しそうに遊ぶ、奏流の姿が、彼の目にはそう映ったのだ。
「……ぼくは、『羨ましかった』んですね……」
 孤独で不遇な子供時代を過ごした、そんな彼だからこそ。
 奏流の持つ光に引かれ、そしてそれを羨み妬んだ――。
「……おいで、奏流」
 次に由乃はそっと少年の名を呼ぶ。今初めて出会ったかのようにおずおずと、彼は彼の最初の理解者のもとへ歩み寄った。ふわりと包み込まれて、困惑のようなものが表情に漂う。
 奏流を抱きとめた由乃は、顔を上げて志津馬を見上げた。
「誰も知らずに育ってきて、誰かと触れ合う楽しさを知った、それを失いたくないと思った――誰がこの子の行動を責められますか?」
「……」
 志津馬は無言である。
 由乃と奏流もまた、沈黙を守った。
 秋はしばらく考えたあとで、言う。
「……とにかく奏流が不便しないようにしてあげなきゃ。生き物・・・はね、そんな粗末に扱っちゃ駄目なの」
「そうですよ。それが、彼を生み出したあなたたち・・の使命です」
 二人に言われて、志津馬は少し照れくさそうに頷いた。この件が終わったらすぐにでも、遊帆と共に奏流の身体となる装置を開発しよう。
 ……そして、やがて階下から少しずつ足音が聞こえてくる。
「――ああ、友典さんたちも来たようですね」
 ぼくは、どうしたらいいでしょう?
 友典たちは志津馬を敵視している。出会えば大変な事になるだろう。
「――あっ」
 秋がぎょっとして声をあげた。
「そう言えばもう一人来る・・・・・・わ!」
 その言葉に由乃と奏流はきょとんと目を見合わせ、
「あっ」
 残る三人を引っ張ってくるのは志津馬の姿をしたもう一人――恐らく『内部』の秀一――だろうと気づいた。
「――だったら彼には悪いけど、ここは面倒背負ってもらおっ。早く隠れちゃった方がいいわ!」
 秋は慌てて志津馬をどこかの隙間に押し込もうとし――そしてそのまま、その身体を通り抜けてつんのめった。
「――へ?」
 秋は呆然と自分の手を見つめる。
「な、何が――?」
 今ひとつ状況のわかっていない表情で、志津馬は呟いた。足先と指先からゆっくりと色が透けてくる。
「……まさか!」
 消え始めている。
 この状況に至って――既に奏流の妨害もなくなったというのに、志津馬は消滅し始めていた。
 由乃が力を与えようと手を差し伸べるが、その手にすら彼はもう触れることができない。由乃は兄に助けを求めようとしたが、なぜかこんな時に限って出てきてくれなかった。
「待ってくれ、僕がいなくなったら、誰が――?」
 奏流の体を創り、人と同じように過ごせるようにするという彼の義務は一体誰が果たすというのだろう?恐らく遊帆も先刻の会話を聞いてはいただろうが、それを代行してくれるとも限らないし、そもそもできるかどうかもわかりはしない。
 しかし、無情にも志津馬の姿はどんどん透明になっていき、そして。
「まだ駄目だ、まだ――まだ僕には、仕事が……!」
 血を吐くような叫びを残して、その姿はついに一片の痕跡も残さずに消失してしまった。
「志津馬、さん……」
 目の前で彼が消えたことがさすがにショックだったか、由乃の声がかすれる。秋に至っては言葉もない。二人の様子から喪失を理解した奏流がぎゅっと眉を寄せて、
 とたん、轟音と共に窓から見える空の端っこが崩れ落ちた。
 足音が大きくなる。友典、英晴、一粋に追われて走ってくる『志津馬』の姿を目にするのは非常にやるせない。だが堪えかねてそこから目を離す寸前、彼がふいと首を傾げ、そして誰かに向けて頷くのが見えた。
 走りながら慌しく白衣を脱ぎ、それをさながら闘牛士の赤い布のように翻すと、追ってきていた三人の姿がそこに吸い込まれるように消えた。続いて彼は由乃と秋に向き直って、
「……心配しなくていい。この世界が崩壊する前に早く外へ」
 囁いてそれを閃かせた。
 浮遊感の中、由乃はしっかりと抱いていたはずの奏流の感触が消えていくのを感じていた。

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