暑い砂漠のど真ん中、一粋は開いたドアを覗き込む。そして首を傾げた。
「何や……?おかしいわこれ、向こうに繋がってない」
 その向こう側には、景色がなかった・・・・・・・。見えないというのでもなく、真っ白だというのでもない。そこに何があるのか、に注意を集中することすらも困難なのだ。普通に生活していてはまず見ることのできない光景だろう。
「……駄目なんか、これじゃ」
 眉をひそめた一粋の陰からドアの中を覗き込んだ火奈が不意に声をあげた。
「……あ」
 火奈の目前で、開いたままだったドアが――その向こうに何があるのかがどうしても認識できないという奇妙な状態だったそれが、いきなり風に翻弄されるかのようにばたばたと動き出した。
「なっ、何や?……うわっ」
 いや――風に翻弄される『ように』、という表現では正しくない。なぜならそれは、実際に強風のようなものに煽られていたからである。
「引っ張られる……!?」
 火奈は一粋の服の裾を掴み、一粋はドアの取っ手を掴んで、お互い必死の表情で堪えようとする。しかしその抵抗はあっけなく崩れた。 「だあぁっ!それは詐欺やろそれはぁっ!?」
 外から引っ張って開ける方式だったはずのドアが、風圧に耐えかねたかその『内側』に引っ張り込まれてしまい、無理のかかった蝶番ちょうつがいが一斉に壊れて外れてしまったのだ。
「何で俺、こんなんばっかりなんやぁぁぁぁぁ!」
「……由乃ねえさまぁ!」
 悲鳴をあげて一粋と火奈はその謎の空間に飲み込まれていく。しかしそれでも一粋は、小さな――少なくとも見た目だけは、華奢で幼い――火奈を抱きしめて守ってやることだけは忘れなかった。

 由乃はしばらくしゃくりあげていたが、やがてその声も小さくなり、わずかずつその場に静寂が戻ってくる。
「……さて、ずっとこうしていたいのは山々なんだけど、実はあまり時間がないんだ。話しておかなきゃならないことがある」
 最愛の妹を抱きしめたまま、来は囁いた。他の誰が聞いているわけでもない、そのはずなのにその声は限界まで低く抑えられている。
「由乃……おまえならできるはずだ。釈迦の掌上の孫悟空の立場を脱出することが」
「……え?」
 独白めいたその一言は由乃にはさっぱり理解できなかった。
 やや緊張した口調で来はいう。
「――いいか、よく聞いて覚えておくんだ。……今現在『釈迦』の立場に立っているものは、三人いる。俺たち――『孫悟空』に当たる者たちはみんな、今まさに三人の『釈迦』の掌の上で動いてる」
 誰にも聞かれないように、ほんのかすかな声で――それでも『釈迦』はお見通しだろうがな、と来はわずかに自嘲気味の笑みを浮かべた。
「その三人のうちどの『釈迦』が最も上手うわてなのかは、まだ俺にもわからない……俺の立場からはそこに三人がいるということしか見えないからだ。そして今いるここは、その三人全員の思惑で動いてるんだ」
 まるで何かの謎掛けのような。
 ひどく難解な――言葉。
「――何のことなのか、……わたしには」
 わかりません、と続けようとした由乃の言葉を鋭く遮る。
「しっ。――こんなことをしたってどうせ無駄なんだろうとは思うんだけどな……それでも万一ということはあるし、とにかく聞かれないようにしないといけない」
 月藻は来の視線を受けて、ぴくぴくと耳と鼻をうごめかせた。こうしているとその仕草はやはり犬を連想させる。
「……近くには何もいない。……だが、そんなことよりもっと……俺にはわからぬほどの遠くの存在――それこそが脅威なのだろう?」
 来は軽く頷いた。
「……いいか由乃。おまえには十分な力があるんだ。おまえなら必ず三人の姿を、心を知ることができる。俺にもある程度の推測はつかないじゃないんだが、いかんせん背景を知らなさ過ぎるからな。今俺が見ている奴の姿が一体三人のうちでどんな立場にあるものなのか、どんな目的をもっていそうなのか、それが理解できない……」
 非常事態の中、一人彼だけは、一歩引いた立場からそうして由乃に助けを差し伸べてくれる。その姿は生前と何ら変わりはなかった。 「……何かを待っているらしい、いや、――あるいは何か別の目的もあるのか……。とにかく――『望まれて生まれてきた』はずのモノが道に迷おうとしている。迎えに行ってやるんだ」
 本当は望まれて生まれてきた――子供。
 それなのに道を誤ろうとしている、危うい姿。
 ――どこかで知っている光景。もしかするとそれは、『わたし』だったかもしれない……。
「……いいな?」
 言い聞かせるような静かな声。
「……ええ」
 ほとんど吐息と区別のつかない返事をして、由乃は改めて来の身体に縋る。
「……静かですね」
 ……いつまでもこのままだったらいいのに。
 しかし、それは無論叶わぬ望みなのだ。
「……全くだ。――うん?」
 来は耳をぴく、と動かした。犬は飼い主に似るというが、実は月藻の仕草は来から伝染したものなのかもしれない。
「……残念だが、この場はこれで終わりみたいだな」
 すこしだけ肩をすくめて。
「火奈がどこかに入り込んだらしい。駄目だぞ由乃、お姉ちゃんはしっかりしてやらなくちゃ」
 言いながら来はおもむろに由乃から離れて、室内にあった大きなクローゼットの扉に手をかけた。
「……余計なのが一人いるからな、引き出し程度じゃ呼び出せない」
「?」
 由乃が首を傾げる。
 来はそのままクローゼットを開けた。……と、
「あいったぁぁぁぁ」
「――つぅ……」
 さながらバランスを何も考えないで荷物を詰め込んだ収納場所を開けたかのように、どさどさと中身・・が降り注いだ。来はひょいと横に逃げる。
 目を回して落ちてきた一粋が由乃を認め、へろへろの声で言った。
「……あ、あれ?由乃さん?」
「……一粋さん、どうしてそんなところから」
「え?あ?……いや、別に隠れて覗いてたとかそういうわけやないねんで。何やよくわからんところからいきなりここに……」
 それくらいは由乃にもわかっているのだが。
「……はじめまして、外来くん」
 苦笑を浮かべながら来が声を掛けた。
「由乃はそんな誤解をするほどれてないから安心していい」
「……あんた、誰や?」
 それももっともな疑問である。来はさらに苦笑を深めて名乗った。
「稲本来――由乃の兄、だ。君の事は前々から知ってたけどな」
 思いもよらない言葉に一粋が目を白黒させる。それを見て由乃はくすくす笑った。
 一方では火奈が月藻に大目玉を食らっている。
「封印の中が心地よくないことはわかるが、主を放り出して外出するとは何事だ!」
「うう……。ねえ由乃ねえさまぁ、月藻がいじめるのぅ」
「あ、こら、この雛め!主に助けを求めるとは卑怯……」
 冷静な浪人風の男もすっかり形無しである。火奈――こちらも由乃の前では相当な甘えん坊になるようだ――にしがみつかれ、由乃は笑って月藻に言う。
「まあまあ月藻さん、火奈ちゃんだって悪気があってやったわけではありませんから」
「しかしここでどうにかしておかないと後がだな、その……来、何とか言ってくれ!」
「俺はいつもいるわけじゃないんだからな。頼り癖がつくと良くないぞ、月藻」
 さらりと言ってのけ、月藻が絶句したのを見て来は笑う。火奈に向かって言って欲しかったことを、事もあろうに自分が言われてしまった月藻の表情は、気の毒ではあるが確かにおもしろい。
「なかなか賑やかで、いい『場所』になってきたな……」
 そして由乃も。
 彼がひどく気にかけながら死んだときからは、ずいぶん変わった。
「……そろそろ俺は行くことにしよう。ここに長居して、結局存在が保てなくなるほど消耗したら阿呆みたいだからな」
 まあそんなに弱っちゃいないけどな。
 うそぶ嘯いて、来は由乃を呼ぶ。
「……俺は現実世界ではほとんど姿を見せないだろうが、おまえが俺を必要とする限りいつでも側にいる。困ったときにはいつでも助けてやるから。俺がおまえの護法神だ――もちろんそんなものは必要なくなって欲しいんだが、まあ保険かな……」
 由乃は、その一部微妙に照れくさい台詞を静かに聞いている。
「……いい友達に出会ったな、由乃」
 最後に一言囁いて。
 来はふ、と姿を消した。
 残された月藻と火奈と由乃が感慨にふけっている間、一粋は一人状況がわからずに混乱していた。
 つくづく損な役回りに当たりやすい彼だった。

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