「――き、消えちまった……?」
 ほんの一瞬前まで山奥の滝があり、小さな由乃と、それから由乃の兄と思われる人物・来が『いた』はずの部屋は、いまや単なる空き部屋になっていた。
「……現象の継続時間に限界があるということかな?」
 友典が顎に手を当てて呟く。
「――そうじゃない気がするなぁ。何でって言われても困るんだけど、それはなんか違うなって気がするの」
「だったら、一つの場面シーンが終わるまで……とかか?」
「その可能性もあるな……まあ、そんなこと今決めたってしょうがないけどね」
「なら話振るなよっ」
 状況がどうなろうとも、やりとりは漫才の雰囲気を保っていた。つくづく、事態の深刻さを感じさせない連中である。
「さぁ、次の部屋行ってみよー!」
 秋が小声で呟いて、ぱっと次の部屋のドアを開けた。と、突然。
「――ぃえええええええぇいぃっ!」
 まだドアが邪魔で見えない室内から、裂帛れっぱくの気合が迸った。
「今のは……ちょっと幼いが、英晴の声……だな」
「……組み手かなんかやってるみたいだ……だったらうちのじいちゃんもいるだろうな」
 言って英晴が部屋の中を覗き込もうとした刹那。
「――うわああぁっ……!」
 盛大な悲鳴が響いた。英晴が寄りかかっていた壁が衝撃に揺れる。どうやら、少なくとも室内のものは、その中で展開されている場面の影響を受けるらしい。
「――むっ、いかん!」
 室内から聞こえてきた声は確かに英晴の祖父であり、一流の格闘家である高森正玄まさはる――格闘家としては「しょうげん」と読ませる――のものだった。駆け寄って来る、意外に軽い足音が聞こえた。
「……あ、思い出した」
 秋が、ぽん、と手を打った。
「英晴が入院したときのだ……友典は覚えてるでしょ?」
「……そうか、あれか」
 二人が納得したような顔をしているにもかかわらず、英晴本人だけがどうにも腑に落ちないといった表情のままだった。
「……おれが入院したって、いつ?」
 英晴本人の記憶にはないようである。
「あー、いやー、そのー」
 えらく煮え切らない返事を返して秋が友典を振り返った。友典は何を戸惑う必要があるんだかわからない、といった表情であっさりと話し出した。
「そうか、英晴は直接は覚えてないかもしれないね。……いつまで経ってもなかなか背が伸びない理由は聞いてるんだろ?」
「……っと……おれがちょっと気張りすぎて、受け身の取れない体勢でじいちゃんの一撃を喰らったから……あ、そうか。それか」
 英晴はようやく納得がいったらしい。
 まだ友典と知り合って間もない、小学生時代の出来事である。
 友典を家に招いた英晴は、祖父に呼ばれて組み手を行うことになった。
 別に特別なことではない。いつでも、毎日数回の組み手はさせられていたし、正玄の知人がきたときにやらされたこともあった。英晴自身組み手も、それを人に見せることも嫌いではなかったから別に嫌々というわけでもない。
 ……だがしかし、そのことが悲劇を生んだ。
「……確か、おれが無謀な攻撃に出たんだよな……友典とか秋とかが見てると思ったからなんか浮かれててさ」
 防御を考えない捨て身の攻撃をいきなり繰り出した英晴に、正玄のとっておきの一撃が見事、決まった。手加減していたとは言え、受け身も取れない体勢であればそのダメージは計り知れない。それもよりにもよってがら空きになった背中――ちょうど背骨のあたりに入ってしまったのだ。
 助け起こした正玄が、めったに動揺しないその祖父が、思わず真っ青になったほどその一撃――《天龍掌てんりゅうしょう》はしっかりと決まっていた。
「……直接は覚えてない。痛かったんだろうけど……なんだろうなあ、全然覚えてないや」
 覚えていない原因が何なのかはよくわからない。ダメージが大きかったのかそれとも疲労してでもいたのか、英晴はその後一日半眠りつづけた。
 だから英晴は、目覚めてから聞いた話しか覚えていない。
 『十年殺しの急所』、とやらの近くに当たっていたそうで、手加減していたから死ぬことはないだろうが、予想もしない害があるかもしれない、といわれた。
 いつも楽しそうに格闘している、それでもそれなりに威厳ある祖父が平謝りに謝ったのなど見たのはあれが最初で最後だと英晴は思いだした。
 やがて室内の音が消え、過去が夢幻に帰り消えていく。やがてその部屋もただの空き部屋に戻って――
「……秋、何ですぐにはっきり言わないんだよ、考えちゃっただろ」
 英晴は秋に軽く裏拳で突っ込みをいれた。
「――え?」
 秋はびっくりしたように、英晴を見た。
「……何かやっぱああいうのって気にしてるんだろうな、って思ってたからだけど……まさか、忘れてたの?全然?全く?」
「うん」
 はっきり頷く英晴に、秋は思わず吹き出した。
「笑うことないだろ。あれはほとんどおれの責任だし、どうせあんなの済んだことだから気にする理由なんてないんだからさ」
 何であってもそう考えられることこそが彼の最大の強みなのかもしれないが、彼自身はそれに気づいていないのだった。

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