四、しきものたちの思惟しい


      *      *      *

「ゆ、結城主任――!」
 今後数日のスケジュールの都合で、眠くもないような妙な時間に仮眠をとろうとしていた結城秀一は、結城コーポレーション本社ビル十六階の彼の自室でその声を聞いた。伴って伝わってくる慌てきった足音に、彼はそっと目を開いて最高級のソファーベッドから身を起こし、手櫛で黒褐色の前髪をかきあげる。室外から聞こえてくる焦った声など意にも介さぬようにゆったりと洗面所に向かい、鏡を見ながら更に念入りに髪を整えはじめた。
「起きてないんですか、主任――!」
 開かないドアを懸命に叩いている音がする。
 多少なりとも眠くなりかけていたところを起こされたものだから、彼もやや機嫌が悪い。投げ遣りに呟いた、聞こえるはずもない言葉にも険があった。
「……もう少し丁寧に起こせないものかね、全く」
 そして彼は、自分の顔が映った鏡の横に設置された用途不明の無数のボタンの一つを何気なく押した。と、
「――のぅあっ!?」
 一瞬にしてドアが開き、奇声と共にドアの外にいた男――秀一を主任と呼ぶのだから、恐らくは電気電子部門の研究者であろう――が部屋に転がり込んできた。
 秀一はそれでもしばらく、完全無視して髪を整え続けた。ようやく納得できる形になったのか、突如踵を返し、洗面所を出る。
 と、そこには。
「主任ん〜」
 両面テープを貼り付けたプラスチック板にくっついたまま床に倒れ、身動きできなくなっている男がいた。
 秀一は、銀縁眼鏡の向こうの目を丸くした。見慣れていない者になら本気で驚いているように見えただろうが、あいにく見慣れている男の目にはその顔は愉悦を含んだものに映る。
「何をやっているんだい、君?」
 すっとぼけてこんな事まで言うのである。
「……何言ってるんですか、ふざけないでくださいよ主任!あなたがいきなりドアを開けて、しかもこんな仕掛けをしておくからじゃないですか!」
 男の怒号にもしかし秀一は動じない。
「……何とまあ図々しい。僕のせいだって言うのかい?急いでいるようだったから一番早い方法で開けてやったのにそんな恩知らずなことを言うなんて。困った男だね君は」
 微かに眉をひそめて、彼はそう言い放った。
 確かにドアを開けるのには一番早い方法だっただろう。しかし同時に、そのドアの内側に両面テープつきのプラスチック板を仕掛けるなどと言うことをやっている以上は責められて当たり前である。しかし秀一はのらりくらりと矛先を逸らした。ずいぶんと慣れている。
「そんなこと言ってないで……早くこれを剥がしてくださいよ……」
 そう懇願する男を手伝い、秀一は両面テープを剥がす。
「まあその件はこっちに置いといて……なにか急ぎの用件があるんだろう。はやく話したらどうだい?」
 男を立たせ、動作付きで『こっちに置いといて』をやった後、秀一は真面目な顔で問いただした。真剣な顔をすると整った顔立ちともあいまってひどく深刻そうな顔つきになるので、男はすっかりごまかされる。結城家長兄を相手にするには、あまりに詰めが甘かった。
「……あ、そ、そうでした!実は『例の部屋』の装置が……」
「『例の部屋』の装置?」
 秀一は、ぴく、と片眉を上げた。
「ええ。お分かりでしょう、主任?例の開発中止になったハード――〈バーチャル・プロジェクタ〉の事ですよ!」
 バーチャル・プロジェクタ――それは、つい二ヶ月ほど前、完成を目前にして放棄されたゲーム用本体ハードディスク[STEB]の通称である。大変画期的な装置であるそれは電気電子部門のホープと呼ばれた若き研究者が企画立案し研究していたものだが、三年前にその研究者が不慮の交通事故で命を落として以来、約二年ほどの間その企画プロジェクトは凍結されていた。それを昨年新たに電気電子部門のホープと呼ばれることになった研究者が引き継いで、研究を再開したのだ。ただし最終的には、装置自体が抱えるさまざまな問題――小型化が非常に困難であるとか、とんでもなく電力を消費するとか、対応するソフトの製作が難しいとか――に加え、少年の凶悪犯罪の原因としてゲームが糾弾されているという社会情勢もあって、研究は中止されてしまったのだが。
「ほう……しかし[STEBあれ]がね」
 秀一は悠然と窓際へ歩み寄り、外の風景を眺めた。高所から見下ろす風景は春らしく霞んでいる。
 [STEB]とは、《Spectacular and True Entertainment Box》――壮大かつ真に迫った、エンターテインメントの箱、の略称だと企画書には書かれていた。
「いや、しかし……起動するだけならそう難しいことでもないはずだね。誰にでもできるだろう。あれは構造こそ信じられないほど複雑だが、電源を入れれば起動するようになっている訳だし、一応の動作もするんだから」
「いえ、そ、それはそうなんですが……その、初期動作などではなく、まるで誰かが操作しているか、……こんなことを言うのは馬鹿馬鹿しいですけど、自分で意思を持って動いているみたいに――」
 ――まるで、誰かが操作しているか、
 ――自分で意思を持って動いているみたいに――
 それを聞いて、秀一は。
 男の方には向き直らないまま銀縁の眼鏡を少し下げ、悪戯好きの子供のように、嬉しそうに笑った。
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