目が覚めたら朝だった。
 一瞬、また移動しているのではないかと思ったが、今度は自宅ではなくてちゃんと寝た場所で目が覚めた。
「あー……やだなぁ、おれ。こんなことで安心したくないって」
 英晴は嘆息した。非日常に翻弄されている自分を自覚する。
 とりあえず部屋を出ると、階下で数人の人間が動いている気配がした。
「あ、起きた起きた。おはよー、英晴」
 階段に差し掛かると向こうから秋の声が飛んでくる。
「何だよ、みんなもう起きてるのか?」
 くしゃっと己の黒髪を掴んで様子を見ながら、英晴は言った。ちょっと寝癖がついているが、そもそもがややくせっ毛なのでさほど目立たない。
「うん、大体。友典がまだベッドにいるけど、起きてはいるみたいよ。あと、由乃ちゃんも呼ぶと返事はあるんだけど部屋から出てきてないの。もうすぐ朝ご飯だから呼んできてよ」
「ああ。……ところで、今日は何年何月何日だ?」
 英晴はふと不安になって問う。秋は曖昧に表情を崩し、少し目を逸らして応じた。
「ううん……安心して、っていうか何というか、だけどね。二〇〇二年四月三十日だよ」
 まあ、また一年進んでしまったとかいうことがないだけいいのかも知れない。だが英晴は少々失望した。何もかも元に戻っているのではないか、と一縷の期待をかけてもいたのだ。
「さすがに戻っちゃいないか……」
「うん、実はあたしもそう思ったんだけど、さすがにそれは甘い考えだったみたい」
 秋は苦笑した。
「さ、川本さんが呼んでるから、由乃ちゃん呼びにに行ってきて」
 英晴は下りかけた階段をまた上がって、昨日由乃が入った部屋に向かった。
「由乃ー。ご飯だって」
 至って簡潔に内容を伝えた英晴に、「はい」という返事が聞こえ、そして、
「……」
「う、うわっ!?」
 まったく声も音も立てずに部屋の中から飛び出してきた少年が、思いっきり英晴に突き当たった。
「――っと」
 ……が、ぶつかられた衝撃が妙に軽かった。英晴は一歩押し戻されただけだが、相手の少年の方はきれいに背中から床にひっくり返っている。
 少年は手を突いて起き上がろうとした体勢のまま、英晴を見上げた。真ん丸に見開かれたその大きな黒い瞳はちらとも動かず、英晴はそのことに少したじろいだ。何だか落ち着かない。
「……あら、何やってらっしゃるんですか?英晴さん」
「え?……いや、その……」
 返答に窮した英晴は、きょろきょろと落ち着きなく左右を見回したあと、ようやく気づいて少年に手を差し伸べた。
 少年はしばらくきょとんとしていたが、やがてぱっと顔を輝かせて英晴の手をとった。英晴が軽く反動をつけて起こしてやると彼は嬉しそうに笑い、
「ありがとう!」
 といってすぐ駆けていった。
「……あ、ああ」
 英晴が返事をしたときには、少年は既に、決して短いとはいえない友典邸二階の廊下の端まで行き着いていた。
「ねえ由乃?由乃?おりていい?」
 下へと続く階段の前で飛び跳ねている少年――いや、この様子を見ればむしろ『子供』と言う表現がふさわしいか――が嬉々として言う。
「少し待って。一緒に行きましょうね」
 由乃は英晴にもにっこり笑って、「行きましょう?」と促した。
「……あ、ああ」
 先刻少年に返したとまったく同じ返事をして英晴は歩き出したが。
(……何だ、あいつ)
 先ほどの衝撃も、今手に残った感触も、あの年頃の、一見して平均的な体格をしている少年の重みにしてはあまりに軽すぎた。
(……もしかして、あいつ――何か人間じゃないもの、なのか?)
 かすかに眉をひそめた英晴の肩に、由乃が軽く手を置いた。ぎょっとして振り向くと、
「あの子――悪い子に、見えますか?」
 前方を――少年を優しい眼差しで見ながら由乃が言う。
「……いや、そういう訳じゃないけど」
 ただ、一瞬、あまりの軽さに驚いただけだった。
 しかしそういう英晴の心境は、由乃には伝わらなかったようだ。
「人間なのかどうか――というのは、それほど重要なことなんでしょうか?」
 本気で不思議そうに言う由乃に、さすがに英晴も驚いた。……と言うか、さっきから驚きっぱなしだが。
「あの子は――確かに、普通の定義でいう『人』ではないと思います。けれど、害のない存在であることは……わたしを信頼してくれるならば、という条件はつきますが証明できますし、見ているだけでも彼が本当に無垢な、生まれたばかりの存在であろうことは容易に想像がつきます……それで、十分ではないですか?」
 最後の方はもうほとんど独白に近かった。
(――それとも)
 それとも、やはり自分以外の――『普通の』――人間には、この状況でそのような見方はできないのだろうか。
 自分自身が、見方によっては『人間』の定義上で揺れ動くような存在であることを自覚している彼女だけに、それは重すぎる自問だった。
「……いや、よくわかんねえよ」
 突如意識に飛び込んできた英晴の言葉に、由乃はびく、と肩を震わせた。慌てて振り向くと、彼は頭を掻きながらいう。
「おれには、あんまり難しいことはわかんねえよ……けど、由乃が見る限り、あいつは悪いものじゃないんだろ?だったら――それでいいじゃん」
 由乃は緊張していただけに呆気にとられ、二、三度瞬きをした。思わず立ち止まった彼女を英晴が追い越していく。
「……心配すんなよ」
 心配しなくても、大丈夫だから。
 人間か、それともそれから少し外れる存在か――そんなくだらない境界に縛られるような奴は、ここにはいないはずだから。
「……もっと、信頼していいぜ」
 英晴はそう言うと一瞬由乃を振り返って笑いかけ、それから階段の前で「早く早くー」と飛び跳ねながら叫んでいる少年に「おー、今行くぞー」と言って駆け出した。
 由乃は、しばらく微動だにせずそれを見ていたが、やがて微苦笑を浮かべ、
「……まだまだ未熟者ですね、わたしは」
 呟いて、階段の前の二人の元へと向かった。

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