二、藤四郎とうしろう消失しょうしつ


 英晴は愕然と目をこすった。が、目の前のカレンダーの日付は変わりはしなかった。明らかに就寝時から、一年経っている・・・・・・・
(じ、冗談きついぜ……まさか一年眠ってたってのか?)
 英晴は一瞬そう思ってしまった。彼自身、人よりはかなり良く寝る方である。だが無論のことそれだってせいぜいが「疲れきって眠ったら丸一日経っていた」と言う程度のもので、丸一年などという時間が経過していることなど有り得ない。
 夢じゃないか、と思い、英晴は古典的な方法――自分の頬をつねる――を実行してみたが、つねった部分が普通に痛くなっただけだった。もちろん目が覚めるでもない。愕然とした状態のままベッドの上で硬直していると、突然彼の斜め後ろ、ベッドサイドの電話が鳴った。
「うわっ!?」
 強烈なショックを受けた後だったので、飛び上がりそうなほど驚いた。恐る恐る英晴は電話を取る。
「はい、高森……」
 ――取るのに少し間があったけど、寝てたのかい?
 彼の応答を遮って電話の向こうから聞こえてきたのは、いつもと変わらない幼なじみの声であった。緊張が一気に解け、英晴の肩から力が抜ける。
「……友典か……。何だよもう、あんまりおどかすなよ」
 ――そっちが勝手に驚いたんだろう……。それより、英晴。何か変わったことはないか?
 やや早口に友典は言う。付き合いの長い英晴には、友典もまたそう冷静な状態ではないということがわかった。
「変わったこと……って言うと……?」
 ――何か気づいたことがあったら言ってくれ。
 あえて向こうから具体的な内容に触れようとしない態度。英晴はやや不自然なそれに首を傾げたが、まもなく考えをまとめて答えた。
「おれの覚えてる日付から、丸一年経ってるけど……そのことか?」
 すると電話の向こうの幼なじみは、大きく安堵の息を吐き出した。
 ――よかった……と言っていいのかどうかはわからないけどね。君もそう思っているなら、僕らが置かれた状況は同じと言うわけだ。
「え?……どういうことだ?」
 ――僕も同じように感じているんだ。しかし、誰に聞いてもそうは考えてないようでね。――それに第一……君は、昨夜、僕の家に泊まっていたはずじゃないか。
「あー、そう言えばそうだった!」
 英晴がはっとして声をあげると、電話の向こうから「がたっ」と何か物が落ちたような音が聞こえた。
 ――思い出してなかったのかい、まさか……。
 呆れたような声が受話器から返ってくる。この様子だとどうやら友典は英晴に呆れて転んだか、あるいは物を落としたかしたらしい。
「ああ全然。そうかー、あれ昨日だったんだな、忘れてたよ」
 英晴のあっけらかんとした物言いと明るい笑いに、友典は、今度は疲れたようにため息をついた。
 ――些細なことを気にしない奴だとは知ってたけど、まさか本当に気づいてないとはね……まあいい。とりあえず僕の家まで来てくれ。電話で話すよりその方がいいだろう。これから、他のみんなにも連絡をとるから……。
「わかった。これから行く」
 英晴は言い、受話器を置いた。
 普段なら起きるとすぐに朝食を摂るのだが、今朝は何故だかそれほど空腹を感じていない。彼はコップ一杯の牛乳を飲み干して、家を出た。

 いつもと変わらない風景。いつもと変わらない人々。いつもと変わらない、空気。
 それなのに日付だけが、まるで勝手に一年もずれているのだから何だかおかしい。奇妙と言うよりはむしろ、くすぐったいような感覚だ。
「あ、おはようございまーす」
 近所の家のおばさんにあいさつをして通り過ぎる。恐らく身長がちっとも伸びないからであろうが、未だに英晴を小学生扱いする彼女は「あら、おはようひでくん」とにこやかに返した。
 そのまま通り過ぎようとしたがふと興味が起こり、英晴は数歩戻って彼女に質問する。
「おばさん、今日って何年の何月何日だっけ?」
「あら、おかしな英くんね。今日は二〇〇二年四月二十九日・・・・・・・・・・・に決まってるでしょう?カレンダー、おうちにないの?余ってるからあげましょうか」
 にっこり。
 その人のよさそうな笑みに、英晴は得体の知れない恐ろしさを感じる。どう考えても、嘘をついているようには思われなかった。
(……違ってる……認識そのものが、まるっきりずれてるんだ)
 自分と、それから少なくとも友典の認識は、明らかに今会話している相手とは食い違っている。考えてみればカレンダーの日付だけなら、多少面倒ではあるが誰かが悪戯半分に変えてしまえないものでもない。自分だけでなく友典も騒いでいた時点でこのことには気づくべきだったのかもしれない。
「……いや、いいです。ありがとおばさん。じゃ、出かけてきます」
「はい、行ってらっしゃい」
 とりあえず動揺を表に出さないよう取り繕って、英晴はその場を立ち去った。

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