二〇〇一年四月二十八日、午前十一時半。
 決して交通の便は悪くないが市街地よりはるかに自然が多い、そんな場所にある一軒の邸宅の中庭で、数人の若い男女が忙しく動きまわっていた。
友典とものりぃ、荷物どこに置いてくればいいの?」
 栗色の髪の活発そうな女性が、少し離れた場所にいた背の高い茶髪の青年に呼びかけた。
「とりあえずわかる場所に置いておいてくれればいいよ、どこにあったって別に邪魔になることはないから。それに、今客間まで運び込む必要もないだろ」
「はーい、わかったぁ。……じゃ、羽澄はすみくん、行こ」
 指示を受けた彼女は振り向いて、すぐ傍らで待っていた黒髪の青年に言う。
「はい」
 青年はにっこり笑って答えた。その笑みが、少し野暮ったい黒縁の眼鏡とあいまって何とも「のほほん」とした印象を与える。二人は各自の荷物を担ぎ上げて邸宅の中へと入っていった。
 彼らは皆、羽鳥はとり大学の一年生だ。今日は二〇〇一年四月二十八日、土曜日。一般的には黄金週間の初日である。しかし大学生の場合、五月の一日二日が空いてしまう飛び石連休であり遠出には向かない。誰もがちょうど計画を立てあぐねていたところで、大学入学以前からの仲間の一人が「自分の家に来ないか」と提案したのだ。他にすることのなかった彼らはその誘いに乗り、こうして今日訪ねてきたのである。
「……それにしてもすごいお屋敷ですよね。これでぼくらと同い年だなんて信じられない……」
 きょろきょろとあたりを見回しながら、黒髪の青年――羽澄藤四郎とうしろうと呼ばれている――が言う。広大な庭に鬱蒼と木々が茂ったその屋敷は、確かに大学生の持ち物としてはあまりに常識はずれだった。
「ああ、羽澄くんは初めて見るんだったっけね。……何てったって友典はあの結城コーポレーションの御曹司だからね。資産規模は目ぇ回しそうなレベルよ。なんか四男だからそれほど重要な仕事はもらえない、とは言ってたけど。――でもさぁ、これで十分だと思わない?これ以上どうこうしようなんて贅沢にも程があるわ」
 肩を竦めながら、栗色の髪の女性……実任秋さねとうあきが応えた。
「思います思います。これ以上のものを望もうなんて、ぼくらじゃ全然考えませんよね」
「ま、あたしらは少なくとも、確実にそこそこ忙しくって重要そうな仕事には就くんだろうけどね……って、そんなとこ羨ましがられても全然嬉しくないっ!」
 一人でボケて突っ込んでいる。藤四郎はくすくすと笑った。その笑みに気づいた秋は、少し顔を赤らめて問う。
「……ところで羽澄くん、ずいぶんな大荷物なんじゃない?何が入ってるの?」
 確かに、数日の宿泊用の荷物の量とは思われなかった。入れ物はスポーツバッグだが、何だかやけにごつごつしたシルエットである。
「ああ、これは今回の休みにはあんまり関係なくて……。実は休み明けに、これをある所に持っていく用があるんです。ぼくの家とこことその目的地の位置関係からして、明らかに持ってきちゃったほうが早そうだったんで、つい」
 少し早口で、藤四郎は説明した。
「ふーん……忙しいんだね羽澄くんも。工学部関係?」
「ええまあ。……何だか知らないけど教授に目付けられちゃったみたいなんですよ。……まあ、楽しいからいいんですけどね」
 藤四郎は言って、常からの人懐っこい笑みを苦笑に変えた。
「うわぁ。……羽澄くんがいいんだったらいいけど、それも大変だね。……と、この辺でいいわよね」
 秋は荷物を下ろした。隣に藤四郎もスポーツバッグを置く。ふと振り返ったとき、
「……わ、すごい、これ誰の荷物?」
 秋は思わず呟いた。藤四郎を上回る大荷物が一箇所にまとめてある。
「ええと……『稲本由乃いなもとよしの』……って書いてありますけど」
「由乃ちゃんがこんなに一人で持ってきたの!?……何なの中身は」
 稲本由乃は未だに少女という表現がぴったり来る、抱き締めたら折れそうなほど華奢な体格の女性である。だがそこにある荷物の量と言ったら、大の男でさえ運ぶのに苦労しそうなサイズだった。
(……っていうか、今までこんなのあったっけ?)
 秋の頭に疑問がよぎった。
 さっき、いや、たった今荷物を置いたときには、そこにこんなに存在感のある荷物はなかった――と思う、のだが。
「そんなこと言われても、見るわけには行かないですよ」
「わかってるって。開けろとは言ってないでしょ。ただ、何かな、って思っただけよ」
「それは確かに、興味ありますけど……」
――と。
 いきなりその由乃の荷物が、二人の眼前でごそごそと動いた。
「……にゃっ!?」
 猫みたいな悲鳴をあげて、秋は数歩後ずさる。
「う、動いた!生き物か何かなの……!?」
「……由乃さんを呼んできましょうかっ!?」
 情けないことに藤四郎は及び腰になる。
「よ、呼んで来て欲しいけど……もう間に合わないよっ」
 そして、秋の言葉に呼応するかのように、『それ』は荷物のファスナーを器用に開いて飛び出した。
「で、出た……!?」
 藤四郎は尻餅をついて、囁くような小声の悲鳴をあげた。
 そこには銀色に輝く、巨大な犬のような――だが絶対に犬ではありえないものがいた。太い脚、たてがみらしき頭部の巻き毛。凛とした立ち姿であるが、奇妙なことにそれ以上動こうとしない。
「……何これ……犬……?」
 秋は呆然としながら呟く――その時、廊下のほうからぱたぱたと軽い足音が聞こえてきた。
「……何をやってるんですか?」
 荷物の持ち主、稲本由乃だった。軽くひそめられた眉からは不審の色が見て取れる。
「何って、その……ああもう、見ればわかるでしょ。そこから何か出てきちゃったのよ」
「――は?何かって……あら」
 銀色の巨犬を見てかわいらしく小首を傾げ、由乃は言った。
「……何で、出てきちゃったんでしょうねえ?」
「……由乃さんの、その、持ち物なんですか?この犬は」
 いくらなんでも泊まりに来るのに――しかも荷物に詰め込んで!――犬を連れてくるのは良くないのではないだろうか。藤四郎は目前に銀の巨犬を見ながら言う。
「はい、いえ、その、……おかしいですね、出てくるはずはなかったんですけど……」
 顎に手を当てて何かを考えていた由乃が、突然はっと息を呑んだ。
「……えーと……何か?」
 藤四郎は、動こうとしない銀の犬と向かい合ったまま尋ねた。きっと犬の方には彼をどうこうする気などないのだろうが、こうして顔を突き合わせてしまうと目を逸らした瞬間に攻撃されそうで動けない。
「……いえ、何でもありません。……月藻つくもさん、いらっしゃい」
 微動だにしなかった狛犬が、由乃の命令に応えてゆっくりと歩き出した。
「勝手に出てきちゃ駄目だ、って申しあげましたでしょう?」
 そういう問題か、と秋は突っ込みかけたが、どうも由乃が相手だと手加減が難しそうな気がしてやめた。と、
「――おい、何をやってるんだ……それ……は」
 騒ぎを聞きつけてやってきた茶色い長髪の青年と、ややくせっ毛の黒髪の少年が、部屋の入り口で揃って絶句した。この家の持ち主である結城友典と、彼と最も付き合いの長い友人である高森英晴たかもりひではるである。
「……犬、か?」
「……よかったな友典、猫じゃなくて」
 やたら背の低い英晴が、長身の友典の背中を叩いた。当人の意思としては肩を叩きたかったらしいが、極端に身長が低い英晴では無理だ。
「……そういう問題じゃない。えーと……何でこんなところに犬がいるんだ?」
 驚きの抜けきらない声で問う友典に、由乃が謝った。
「……すみません、出てきてしまったんです」
 いや、出てきてしまったんですって言われても、説明にも弁解にもなってないじゃん。
 秋と英晴は心の中で同時にそう突っ込んだ。割とテンポの合う二人である。
「……で、どこから出てきたって言うんだ?」
「はい、その、ここなんですけど」
 由乃は荷物を指差した。
「おばあさまがどうしても連れて行け、というので、仕方なく連れてきたんですが……わたしの方でも、どうして出てきてしまったのやら」
 言う由乃のその表情に、特にごまかしらしき色は見えない。
「……。ともかく何かの理由で、そこから出てきたんだな?」
 友典は納得できる説明を諦めたらしく、さっさと纏めにかかった。この切り替えの早さは、日頃から訳のわからない事態にしょっちゅう遭遇するが故の無自覚な慣れの賜物なのだが、そう言うと当人は大層嫌がるかもしれない。
「はい。……あの、しまったほうがいいですよね」
「しまう?」
 由乃の言葉に秋は素っ頓狂な声をあげた。
「はい、しまうんです」
 由乃の言葉はどうにも奇妙だった。『犬』と『しまう』という言葉が同じ文脈に乗るとは到底思えない。
「……しまうって……何に?」
 英晴は心底不思議そうに問う。由乃はちょっと考えて、
「……そうですねぇ……企業秘密っていう事でいいでしょうか?」
 至極堂々とはぐらかした。
 当人に自覚があるのかどうか判らないが、自覚してやっているとしたら大した度胸である。
「……」
 そこまで堂々とごまかされると反論もできず、全員が黙ってしまう。
「ええと……じゃあ企業秘密なので、部屋を移したいんですけど」
 銀の狛犬――月藻が、きゅうぅ、と鼻を鳴らした。何だか不満そうである。果たして何が不満なのか、その辺はさすがに犬の顔からは判別がつかない。
「……そんな、贅沢言わないで大人しくしまわれてくださいよ」
 だが由乃にはその判別がついてしまったようである。自分をあっさりと噛み砕けそうな巨大な顎の真正面に立ち、目と目で会話する。天然気味な女性だとはその場の誰もが元々思っていたが、まさかここまでと思っていた者はいなかっただろう。
 その時ちょうど玄関から、
「おーい!遅うなったぁ!……おーいってば、誰もいてへんのぉ?」
 関西弁の大声が響いてきた。
「――あ、い、一粋いっすい。……居間にいるよ」
 友典が返事をした。関西弁の主は、彼らのグループの最後の一人、外来とき一粋である。
「ふーん。……上がってええ?」
 返事を待たず玄関に上がった音が聞こえた。だったら聞かなくてもいいじゃないか、という突っ込みは無しである。
「……ええとあの、ですから部屋を移したいんですが」
 由乃が言う。
「……そこの隣の部屋は空いてるから、気にしないでしまうのに使ってくれ」
 どうも『しまう』という言葉をこういう状況で使うのには抵抗があるのだが、やむなく友典はそう言った。
「はあ……じゃ、ちょっと隣のお部屋、お借りしますね」
 由乃は月藻と共に隣室に消えた。
「……しまうって……荷物、ここにあるのに……」
 どこにしまうっていうんだよ。
 英晴がぼそっと呟いた。
 由乃を見送った一同の後ろから一粋が入ってきて、「おや皆さんお揃いで」とふざけた口調で言う。しかし反応の乏しさに、一人こっそりと首を傾げて考え込んだ。由乃さん居ないのに「皆さん」てゆうたからかなぁ、などと言いながら一人煩悶しているのだが、他の四人はそれにすら気づいていない。一粋、なかなか不憫な役どころである。
 そうこうしているうちに、隣室から由乃が戻ってきた。
「ちゃんとしまいましたから、これでもうそう簡単には出てこられません」
 彼女が手ぶらだったので、状況の判っていない一粋と当事者の由乃を除く一同は一様に不思議そうな顔になる。
「……あの、どこにしまったのかな?由乃ちゃん」
「それは企業秘密ということで……。でも、ちゃんと元いた場所にしまいましたよ。別にお隣のお部屋の物置なんかに押し込んだわけじゃないですから、大丈夫です」
 さらに一同の表情に「?」の色が濃くなる。と、
「……ああっ!」
 英晴が突然、叫んだ。動揺が走り、周囲の視線が彼に集中する。だが続く言葉は、
「やばい!いい匂いがしてるっ!」
というものだった。そういえば庭で用意していたバーベキューセットの鉄板に、何か載せてきているような気がする。
「追及してる場合じゃないっ!みんな急いで外に出よう!」
 言うなり、自らが先頭に立って走り出て行く。
 最後に残った藤四郎と由乃が、それぞれ少しほっとした表情でいたことを知る者は、お互い以外にはいなかった。
 そしてこの不可解な事件が、この黄金週間に起こるそれに比べれば全く規模の小さなものだったということも、この時はまだ……。

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