一、
休日の
不思議
その日は確かに、曇天ではあった。
今にも泣き出しそうとは言わないまでも、泣き出すのは時間の問題だろうと思われるような、空。
(――急がないといけないな)
台車に大きな金属の箱を載せて運びながら、
藤沢志津馬はそう思う。大切な大切な試作機は安定を保つために気密まで考えた容器に入れているが、無論、雨に晒すのは得策ではない。決して短くはない――と自分では思う――彼のこれまでの人生の大半を掛けた研究成果が壊れでもしたら事である。胸に抱えている書類も、試作機よりは劣るものの大事なものだし。
(それにしても……)
やっと、ここまで漕ぎつけた――。
志津馬は足元に多少の注意を払いつつ、回想に入り込んだ。
幼い時から見続けてきた夢が資金不足で破れそうになった日のことを、自分は一生忘れないだろう。父から、そして義父から受け継いだ遺産をよもやそれほど容易く使いきってしまうとは、自分でもまるきり予想していなかった。
何だか……今思い出すに、誰かが横領していたような気がしてならない。だがきっとそんな事はないのだろう。品物と共に受け取った領収書を逐一確かめてみて、自分でも愕然としたのだから。
そこで彼は、とある大企業へ就職する事にした。その企業が設けていた、意欲のある研究者を補助する制度――それが狙いだった。
そして運良くその策は見事に当たって、彼は資金を気にせず研究ができるようになった訳である。
ふと空を見上げると、いよいよ雲行きが怪しくなっていた。
(――まずい、本当に急がなきゃ)
とはいえ走る事はできない。今運搬中の試作機は精密機械である。振動で破損でもされたらそれこそ冗談ではない。
地面の段差を慎重に避けて横断歩道の前に立つ。
信号が青に変わった瞬間彼は誰より早く一歩を踏み出し――
「――危ねえっ――」
微かに、誰かの焦った声が耳に届いて。
「……え?」
はっと我に返ると同時に耳に飛び込んでくる轟音、そして視野を埋め尽くす勢いでトラックが迫って来て――
(――――――嘘……でしょう?)
至近距離の大質量。現実とは思われない光景。
ここ数日の徹夜の疲労の所為か、それともその驚きのためなのか、逃げようにも足が動かなくて。
(――そんな、馬鹿な――)
立ち竦んだまま――しかし何故か、台車を押していた手だけは迅速に動いていたらしい。
衝撃があっさりと空に舞い上げたのは、彼だけだったからだ。
上下逆転した視界の中で、台車の上の試作機に、遂に天からの涙が落ちるのが見えた。
(あ――急がないと濡れてしまう……)
地に叩き付けられてなお、彼はそんなのんきな事を考えていた。
「――おいっ!大丈夫か……!?」
駆け寄ってきた誰かが息を呑むのは聞こえたが、視界はどんどん白く霞んで行き、それがどのような人物なのか判らない。
「おい、あんた、今救急車呼ぶから、しっかりしろよ……!?」
懸命に声をかけるその人物に、志津馬は抱えたままだった書類入りのバインダーを差し出す。
「――お、おい……?」
困惑した声が聞こえてくる方を向いて、志津馬は懸命に、言う。
「――どうか連絡を会社に……結城コーポレーションに……」
藤沢志津馬、といえば、判るはずです。これだけは、壊してしまう訳に行かないんだ――
ほとんど声にならない懇願。目の前の誰かは叫ぶような口調で彼に応じた。
「判った、連絡するよ、するからあんまり喋るな、死んじまうっ……!」
だが彼は――もう眠くてしかたがない。
「――ありがとう、お願いします」
その声が伝わったか、或いは吐息だけになってしまったか――
それを確かめる事もできないうちに、彼はふわりと、二度と醒めない夢に誘い込まれた。
天涯孤独の彼のために泣く者は、ただ空だけだった。
* * *
――そして機械音の響く薄暗がりの中、青白い燐光を放って少年が立ち上がる。
遥か遠くを視るような目をした少年は、ゆっくりとその細い手を、天へと差し伸べた――。
* * *
NEXT
STEB ROOM
NOVEL ROOM