Tapir Side-B『夢の通い路』

 いつもの通り夜を抜けて、彼女の部屋に忍び込む。
 夢うつつの彼女の枕元に立ち、すうっと息を吸い込むと、ひどく好もしい匂いがした。
 ああ、やはり彼女が一番だ。
 身を屈め、本格的な『食事』に入る。数分の後、いささか食べ過ぎたかと思いながらそっと後退ると、彼女がかすかに身じろぎした。
 ぎくり、と身を竦ませる。息を潜め、石のように固まりながらしばらく様子を伺っていると、彼女は壁の側へと寝返りを打った。
 安堵して、再び忍び足で窓へと向かう。その時突然、白い光が窓ガラスに反射して目を灼いた。
 ……そのまま逃げていればよかったのに、思わず振り返ってしまったのは痛恨のミスだった。
 何しろベッドの上の彼女は……愛用のカメラを抱えて、はっきりとこちらを見ていたのだから。

 ***

 おれはいつも授業中寝ている。
 朝寝ている。昼寝ている。夕方寝ている。夜も寝ている。つまり日がな一日寝ている。一年三百六十五日、一日たりとも余すことなく寝ている。
 おれはどれだけ寝ても眠り足りるということがない。おれにとっては眠っていることが生きているということだ。何故ならおれは夢喰いの妖、獏だからだ。
 悪夢を喰うのがおれたち獏の生態であり、また性質でもある。だからおれたちには人の間が一番生きやすい。その中でもおれは特に高校ぐらいが好きだった。
 獏によっては若い人間の夢は味がきついと敬遠するが、おれはどうも悪食のようで、そのくらいのアクがないと食った気がしない。だからおれは戸籍をとっかえひっかえして高校に潜り込み、美味そうな夢を生む心を持った人間を探すのだ。
 そう、彼女もまた、おれにとってはその一人だった。その一人でしか、なかったはずだったのだが。

 初めて出会ったあの頃、彼女はひどく不安定だった。父母の不仲、寝たきりの祖父、経営のかなり傾いた会社。ただでも多感な思春期になって、それまで保留されていた一挙に問題が溢れかえり、彼女は溺れそうになりながら足掻いていた。おれは一目で彼女を気に入って、毎日のようにその夢を吸っていた。彼女の夢はおれにとっては最高の甘露だった。
 だがある日、おれは一つの失敗を犯したのだ。あまりにも『食事』に没頭しすぎて、彼女がおれに気づいていたことを見抜けずに、思いもよらず写真まで撮られてしまった。夢を喰うときだけは真の姿に戻ってしまうおれの、それは一番無防備な瞬間だった。
 それ以来彼女は、おれがちょうど食事を終えた辺りで目覚めるようになった。目覚めると言ってもぼやけた意識のままらしく、明瞭な言葉など聞いたこともなかったが、その手が腕が毎晩のようにおれを――文字通りに――しっかりと捕らえて離さなかった。彼女が再び寝つくまで、おれはまるで縫いぐるみのように彼女のそばに留まった。
 ……本当のところ、おれたち獏にしてみれば、現実に苦しみ悪夢を見るやつほど好ましいのだ。死なれさえしなければ、苦悩が深ければ深いほど、夢には滋味が増していく。活かさず殺さずが一番好都合で、実際おれは、しばしばドロップアウトしていく仲間を横目にずっとそうしたことを続けていたのだ。
 それなのに、絆された。
 生まれてこの方そんな気持ちは抱いたことがなかった。抱くと思ったこともなかった。しかし彼女の細い腕が、まるで赤子が差し出された指を必死に握り締めるように懸命だったから、夢うつつにあまりにもおれに縋りついてきていたから……いつしかおれは彼女に甘くなっていたのだ。
 その当時、彼女には恋人がいた。彼女とそいつは仲睦まじく学校生活を送っていたが、しかしそいつはやたらに鈍く、彼女の気持ちをろくに察してやれないようだった。彼女はいつも支えを欲していたのに、そばにいてやるべきときほど、そいつは彼女から遠くにいた。悪いやつではなかった、ただあまりに鈍感なばかりにそうなっていただけだとおれにはわかった。
 そして滅多にないことに、おれは一念発起した。わざと、おれが彼女と付き合っているかのような噂を流した。案の定単純な彼女の恋人は慌てて彼女に問い質し、しばらくおれを警戒し彼女を大事にしていたようだった。
 ……それで全ては終わりにしたつもりだった。
 彼女の夢は徐々に落ち着き、おれは他のやつの夢を喰っていた。彼女のほど美味くはなかったが、彼女が幸せならそれはそれでいいと思っていた――そのはずだったのに。
 ある晩、おれはひどく魅惑的な匂いに惹かれて、ふらふらとマンションの一室に迷い込んだ。ほとんど酔ったような心地で食事を終えたそのとき、足元を見ておれは仰天した。
 ――それは、あの萩谷だったからだ。
 もう数年前に縁が切れたはずだった彼女が、再びおれを酔わすほどの悪夢を見始めていた。昔の通りの童顔に不安そうな表情を浮かべて、彼女はまどろみの中でおれを抱きしめた。
 痺れるような不安が、触った部分からおれの身体の中に入り込んできた。
 赤子のように縋りついて、彼女は泣いていた。
『……大丈夫だ、萩谷』
 温かくて細い腕に、おれはそっと手を添えた。柔らかな髪に手を触れた。おれが触れても、人が目を覚ますことはないからだ。
『おれが相沢を連れて帰ってやるから。おまえのところに帰してやるからな』
 いつもそうだ。相沢は何の悪気もなく萩谷を傷つける。いや、傷ついた萩谷をそのままにしてしまう。彼女のそばにいてやるべきはおれでなく相沢なのに。
 だからおれは相沢を探して、会った。驚かして萩谷のところに行かせようと、相沢にはわからないだろう真実混じりの嘘で、白昼夢で惑わした。いささかやりすぎかとも思いながらも抑える気が起こらなかった。
 理由は大体わかっている。最後に吐いた言葉――あれは嘘ではないのだ。
『あの子はおれも、確かに嫌いじゃなかった』
 あれは全くの、本心だ。
 おれは多分、彼女のことが嫌いではなかった。美味い夢を食べさせてくれたとか、そういうこととはかかわりなく。
 だから、その苦悩を取り除いたことに、後悔はしていない。おれにとっては美味い食事をみすみす見逃すようなものだったが、彼女のためならばそれくらいのことはしてもいいと、思ったのだ。

 あれから数年が過ぎた。
 おれは今も高校生だ。東京近郊を転々としながら、色々な戸籍を使い分けながら、みずみずしくて美味そうな悪夢を探している。
 おととい修学旅行で京都にいたとき、おれは彼女をもう一度だけ見かけた。
 いくつか言葉を覚え始めたくらいの幼子を連れた彼女と相沢は、おれから見ても幸せそうだった。相沢は鈍いながらもいい父親になったようだった。
 目が合って、相沢の口が石原の「い」の形に開きかけた瞬間、おれは笑った。普段のような付き合いでも演技でもなく、おれはそのとき笑いたくなった。彼女が幸せそうなことがうれしかった。
 ――だからこそ、おれはその場にいるべきではなかった。
 何のためらいもなくおれは身を翻し、一瞬にして雑踏に紛れ込んだ。動きの鈍いおれのことゆえ鮮やかとはいえない動きだったろうが、写真を撮られたあの時より遥かに上手く、おれは彼女と別れられたろう。
 さようならだ萩谷。柄にもないが今だけは、おれも神に祈ろう。
 おまえとおれ、そしておまえの子孫とおれが、もう二度と出会いませんように。
 悪夢などなくいつまでも、幸せでいられますように。




side-Aへ

POT作品インデックスに戻る


[PR]動画