Tapir Side-A『君の待つ家』

 彼女はいつでも待っててくれると、俺はずっと思ってた。
 何の不満も不平も言わずに、彼女は待っててくれるもんだと思ってた。俺がどんなに遅くなっても、帰ると嬉しそうに微笑んでくれる彼女。その気持ちがわからないと思うことも時々あったが、彼女が待っててくれることだけは俺にとって確実だった。そう、高校時代からずっと。
 でももし、それが間違いだったら……俺は一体どうすればいいんだろう?

 ***

「じゃあ行ってくるから。今夜も遅くなるから、先寝てていいぜ」
「……うん、わかった。気をつけてね」
 いつもの通り苑美に見送られながら、俺はリュックを脇に置いて靴を履く。恥ずかしい話だが、俺は上がりかまちに座らないと靴がスムーズに履けない。一体何歳だよ俺、とよく思う。
 立ち上がってとんとん、とつま先を床に打ちつける。リュックを持ち上げてドアを開けようとした瞬間、後ろから小さな声がした。
「あの……幸宏くん」
「ん? 何?」
 俺は振り返って彼女の顔を見る。彼女はあ、と口を開け、視線を少し泳がせた後で俯き気味に微笑んだ。
「……ううん、何でもない。お仕事も勉強も……頑張ってね」
「ん、ありがと。じゃ行ってくる」
 反動をつけてリュックを肩にかけ、俺は階段を駆け下りる。エレベーターはあるがこの時間、それよりも階段の方がずっと時間を短縮できるのだ。駐輪場から自転車を引っ張り出し、バイト先に向かってかっ飛ばす。時間が結構やばい、間に合うだろうか。
 ……あ、信号で止まった。この交通量じゃ突っ切るわけにも行かない。
 俺は相沢幸宏、卒業を来春に控えた大学生だ。就職はとりあえず決まり、単位もそれなりのところで、卒業したら結婚することを目指し、空いた時間はほとんどバイトに突っ込んでいる。朝には弱いので早朝バイトはしてないが、授業の合間に授業後に、夜遅くまで何かしら働いて帰る生活だ。当然帰るのは深夜になるし、二人の時間もあまり持てない。少し悪いかなとは思うが、苑美は何の不満も不平も言わないから、多分これでいいんだろうと思う。
 信号が青になった。俺は車道の端を選んで全力で自転車を漕ぎまくる。三分後、バイト先のドラッグストアに着くなり奥に駆け込み、身支度を整えた。
「……今日もぎりぎりだね、相沢くん」
 店長が苦笑交じりに俺を見た。

 昼過ぎまでのシフトを働き終えて、俺は大学に向かう。自転車を押しながら混んだ道を行くと、いきなり後ろから声をかけられた。
「相沢。……相沢だろう? 久しぶりだな」
 振り返るとそこには黒髪黒目の、優等生めいた冷静な顔がいる。見覚えのある顔だった。高校のクラスメートだ。
「石原? なんだ珍しいな、おまえこの辺だっけ」
「いや、少し用事があって来た。……しかしこんなところで会えるとは。懐かしいな。少しどこかで話でもしないか?」
「ああ……いいけど」
 俺は腕時計を覗き込む。話し込んでいるような時間的余裕はなかったが、遅刻したところで四時限目は出席すら取らない広域科目だ。むしろ休んでも問題ない。
「そうか。なら……そうだな、あそこの店にしよう」
 石原は言って先に歩いていく。俺は自転車を停めてからそれを追いかける。
 先に席についた石原に向かい合う形で、俺は窓を背にした席に座った。足元にまるで学生鞄のような革の鞄を置き、ウェイターを呼んだ石原が言う。
「サボテンのジュース、レモン入りで」
 何だそりゃ。
 そんなもん置いてる店も店だが、頼む奴も頼む奴だ。……そういえば、昔から味覚の飛んでる奴だったような気はするが。
「かしこまりました。そちらは?」
「……ブレンドコーヒー」
 とっさに一番無難な選択をして、俺は息をついた。
「おまえ変だぞ。舌が」
「そうか? 普段はともかく、既製品を注文するぶんには一般の範囲内だと思うが」
 割とすぐに運ばれてきたサボテンのフレッシュジュースを啜って石原は言う。なんつーか……こう見てて、甘いのか苦いのかすら判断つかないんだがその薄緑の液体……。
「……到って普通だな」
 やや不満げな表情で、飲んでみるか、と差し出されたそれを流石に俺は断った。
「そうか。……まあ普通だからな」
 問題はそこじゃない。
「……なんかおまえ相変わらずだなあ。成長してないんじゃねえの?」
「成長か、する気もあまりないからな。だが相変わらずというならそっちもだろう相沢、萩谷とは仲良くしているか?」
 成長する気もあまりないって何だ。
 昔からなんか言葉が伝わりにくい奴だなと思ってたが本当に相変わらずだな、と俺は苦笑した。
「仲良いぜ、同棲中だ。卒業したら結婚するつもりで……って」
 言いながら、何だかおかしいと俺は気づく。
 久しぶりに会う相手に、いきなり高校時代の彼女のことを普通、聞くか?
 それに……それを言うなら、高校時代に気になる噂があった。俺の彼女、萩谷苑美が――まさに今目の前にいるこの変人と俺とに二股かけてるって話が……。
「……石原。何でいきなり苑美の話なんだよ。もしかしてあの話は本当なのか? 苑美が昔、おまえと付き合ってたって……」
 俺の問いに石原は薄く笑う。
「相沢、言葉は的確に使うものだ。おまえが本当に聞きたいのは『萩谷が二股かけてたって話は本当か』だろう」
 ――空気が緊張した。なんか変な話だが、石原と俺の間の空気が本当に固まったような気がした。
「……まさか、本当なのか」
「さあな、おまえはどう思う?」
 口の端を吊り上げたその顔は……今まで無表情なくらいに淡々としてたあの表情が嘘だったんじゃないかと思うほど生気に満ちて、俺のほうを余裕たっぷりに見下ろしていた。
「――」
 思いも寄らない事態に俺は絶句し、意味もなく石原の肩や手元に視線をさまよわせる。石原は小さく、くっ、と笑った。
「まあ結論から言えば……おれはあの頃から彼女の部屋に上げてもらえるくらいの仲ではあったよ。萩谷はまだ持ってるだろう。羊の形の写真立てに、あの部屋で撮ったおれの写真が入ってる。疑うなら見てくればいい」
 何でこいつこんなに楽しそうなんだ。
 俺は意味もなく動揺してコーヒーを口に含む。
「あの頃おまえは部屋には入れてもらえなかったらしいな」
 変わらず笑いながら石原が言う。
「何でおまえがそんなこと……」
「彼女から聞いていた。おれは彼女からあらゆる悩みについて話を聞いていたからな。家族のこと、進路のこと、友人関係のこと……そして何より鈍感すぎる恋人のこと」
「……」
 絶句……する以外、俺に何ができるっていうんだ。
 そんなこと苑美は一言も言ってなかったのに。
「彼女の悩みは深かったからな。おまえに言えないこともおれには全て話してくれた。おれたちは毎日のように話し合い、協力して悩みに立ち向かっていた。――それは今も同じだ。萩谷はよく電話をくれるぞ」
「……そんなの嘘だ」
 苑美はそんなこと一言も言わないんだから。
 ……ああ、だけど今朝何か言いかけていたのは、まさか。
「結婚を約束した恋人にも話せない悩みを打ち明けてくれるような仲だ。これでわかったか?」
「……わかってたまるか! そんなわけないだろ!」
 ……ああ、でも。
 彼女の性格なら、もし俺に不満があっても、他に誰かを好きになっても、きっと言い出したりできない。
 ずっと、俺が無理矢理彼女を縛ってるだけなのか? 彼女は俺を選んでくれてはいないのか?
 ……いや。
 そんなことはないはずだ。
 去年のクリスマスに「大したものじゃないけどこれ、約束の印」って指輪を贈ったあの時の笑顔……本気で幸せそうに笑ったあの笑顔を、俺は疑うことなんかできない。
「……苑美はそんな奴じゃない。おまえの話なんか信じない、そんなのは全部嘘だ」
 声が少し震えているのを感じながら、俺はそう、呟いた。
 ――不意に空気が緩む。腕組みをしてこちらを見ていた石原が、ふっと息を吐いて目を閉じた。
「……そう、嘘だ」
 ……。……何だ、って?
「……嘘?」
 俺は随分変な顔をして石原を見ただろう。視線の先で石原は、うむ、と重々しく頷いた。
「……そう、嘘だ、全て作り話だ。おれは萩谷と付き合ったこともないし、悩みなど相談されたこともない。おれたちは単なるクラスメートに過ぎなかった、おれとおまえの間柄と変わらないくらいに希薄な縁だった。……ただこの間スーパーか何かで見かけたとき、彼女があまりに寂しそうだったから、おまえに揺さぶりをかけてみただけのことだ。くれぐれも萩谷を責めるなよ、彼女に咎は何もない。高校時代の噂も含め、全てはおれが勝手にやったことだ」
「……って、ちょっと待てよ何だそれ」
 話についていけない。混乱して理由もなく左右に目が泳ぐ。身体がちょっと震えているような気もする。
「だって、ちょ、待てよそれ何だよ」
「……相沢、落ち着け」
 全然意味のない言葉を吐いた俺に、言葉と同時に突如として指を突きつけて、石原は低い声で言った。
「……いいかよく聞け、相沢。彼女はおまえを待っている。おまえだから待っているんだ。気づいてやれ、傍にいてやれ、それができるのはおまえだけだ」
「――」
 耳に入った言葉が理解できるまでやけに時間がかかって、俺はぼうっと石原を眺めていた。
 やがて石原は手を下ろし、時計を見上げて「ああ、だいぶ遅くなってしまったな」と呟く。そういえば何かの用で来たと言っていたか、と俺はぼんやり思う。石原が伝票を開く手元を俺は見ている。七百三十円。
「……さて、ここの払いはおれが持とう。多分もう会うことはない。おれはおまえとは違う時を生きる生き物だからな」
 最後の一言が、ぼやけた頭にも引っかかった。一体何のことだ――そう思って改めて石原を見上げると、俺の後ろの窓から差し込んだ西日がその姿に奇妙に陰影をつけていて、何だか人間というより影を相手にしているような感じだった。どこか揺らめいているような気すらする。おかしい。こんな見え方はありえない。
 何だ……こいつは一体何者なんだ。
 俺が呆然と見ていると、石原はゆったりと席を立ち、伝票を取った。
 着っぱなしだったコートの前を開けて、懐から財布を出す。……隣町の高校の学生服と校章が垣間見えた。
「じゃあな相沢、萩谷を幸せにしてやれ。ほんのひと時のかかわりだったが――あの子はおれも、確かに嫌いじゃなかった」
「ちょ、ちょっと待て石原……っ」
 俺は必死に手を伸ばし――そしてその手は空を切った。
 あの変な具合の光がなくなって、明るい店内が目に入る。おかしい、こんなに客がいただろうか。ここはこんなに賑やかだっただろうか。
 俺は落ち着かない気分で左右を見回し……そして時計を見てぎょっとした。既に夕方六時だった。時期的なことを考えれば、夕日なんて随分前に沈んでいるはずだ。
「……」
 伝票の消えたテーブルの上の、冷めたコーヒーを一口啜る。
 何だか、よくわからない夢を見たような気分だった。
 そして、一刻も早く苑美に会わなければならないような気がした。

 ……夕方からの授業とバイトをさっくり諦め、帰宅してすぐに見に行った苑美の部屋のたんすの上。古ぼけた羊の形の写真立ての中で、白黒の縫いぐるみみたいな鼻の長い獣が、やけに人間くさい仕草で振り返っていた。光の方に真っ直ぐ向けられた目が緑に光って軌跡を牽いている。これは、
「……バク……?」
 普通、高校生の部屋にバクなんていない。……いや、かなり普通じゃなくてもいないけどな。
 これは? と訊いた俺に、苑美は少し困ったように笑う。
「あ……えっとね、ずっと前によく部屋に来てたの。一度、気がついて写真撮って……びっくりしたらしくてすぐに逃げられちゃったけど。私自身、現像してみるまでは、写ってるなんて信じられなかったけどね。学校で見かけたことも、あったかな……」
「……」
 まさか。
 俺はふと思いついて訊いてみる。
「おまえさあ……石原って覚えてる?」
「あ、うん石原くん? ええと、確か……よく窓際の席で寝てた人だよね。その人が、どうしたの?」
 ……いつもと同じような口調の返事。
 取り繕った様子は特になくて……俺は少し困って、髪の毛をくしゃくしゃいじりながら天井を見上げる。
「……あー。いや。何でもない」
 不思議そうな目で下から見上げられて、俺は頭を振った。
「それより最近、なかなか早く帰れなくてごめんな。晩飯とか、用意して待っててくれてるのに」
「あ、ううん。大丈夫。幸宏くんこそ……仕事、無理しないでね」
 言いながらこっちを見ている表情は、透き通ってどこか儚い。寂しそうにどこか遠くを見ている。
 ――『傍にいてやれ、それができるのはおまえだけだ』
 石原の言葉が、思い出された。
「あのな……遅番のバイト、やめるから。できるだけ急いで帰るから、一緒に晩飯食おう」
 口をついて出た言葉に、一瞬苑美は驚いたような顔をして、それからにっこり笑って頷いた。
「うん……わかった、待ってるから」
 ……たぶん、これでいいんだろう。
 貯金計画はきっとちょっと苦しくなるけど、苑美が寂しい思いをしなくて済むなら、そっちの方が全然いい。
 彼女はいつでも待っててくれると、俺はずっと思ってた。だから将来のために家を空けることは、ほとんど気にしたことはなかった。
 でも、待たせるだけじゃ駄目なんだろう。いつかまとめて返すんじゃなく、毎日の営みの中で……待たせる分よりもっとたくさん、幸せを彼女に注ぎたい。
 変な奴だったけど……あの時石原が、馬鹿な俺に教えてくれたんだろう。

 ***

 余談だが、俺はその後にもう一度だけ、石原の顔を見ている。
 たまたま苑美と旅行で行った京都で、修学旅行生の列に混じっていた高校生の石原は、俺たちの顔を見ると一瞬ふっと微笑み――そして、今度こそは去り際を写真に撮られるような間抜けをやらかすこともなく、軽やかに身を翻して人ごみに消えていった。




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