April Fool〜28 years ago〜


 結城一族に於ける四月一日は、恐らく一年の内で一番混沌とした二十四時間である。
 ある意味一族の記念日と言っても過言ではないその日は、様々な虚偽情報が錯綜するが、同時に一日が過ぎ去ってからでは耳にすることのできないような貴重な情報が飛び交うことも稀ではない。混乱を極めたその中から正しい情報を掴むことは至難の業だが、ただそれでも諦めずに挑む者もいて、ここ十数年は一族のみならず全社を挙げての一大行事と化していた。音頭を取るものがいるわけではない、ただ各々の社員が自主的に草の根的に広めているものではあるが、結局は大々的な行事となるそれに反対の声がろくに上がりもしないというのは、流石に入社に当たり結城一族に選ばれた者たちである、と言うべきか。
 だが、当然のこととしてそれに関わらない者もいる。嘘をつくのは趣味ではない、情報をどこまで出していいものか今ひとつわからない、上手い嘘が思いつかなかったなどその理由は様々だが、現総裁である結城正純がそもそも積極的には参加しないので、そうした社員も特に白い目で見られることはない。
 参加するも自由、しないも自由。ただし、この日に各個人の言動によって引き起こされたあらゆる事件について結城コーポレーションは保障しない。すべては自己責任で行なうこと――それが結城一族のエイプリルフールのルールであり、その範疇ならば大体何をしても咎められなかった。
 ……まあともかくそういう日であるが故に、恐らくそれは仕方がなかった。

 結城正純は高層階の自室で、下から上がってくる書類を読んでいた。当然ながら、昨日の分の書類は既に昨日のうちに処理済だ。今日の書類を前後のそれと混ぜるようなのは大馬鹿者である。
日頃真面目な結城本社の社員たちも、今日ばかりは大半が油断できない大嘘つきに変わる。とてつもないフェイク情報が織り込まれた報告、前提を故意に間違えた荒唐無稽な企画もごろごろ出てくる。ただ逆にこういう機会を設けると社員各々の考えが浮き彫りになり、普段なら言いだせないような企画を出してくる者もいるので、正純としても一定のメリットを得てはいた。
(そういうことを考えるから、恐らく俺は未熟なんだろうが)
 目の前の山から取った書類を読み、流石にコストと手間とメリットのバランスが取れないだろう、と判断した書類を左に除けた。右の山は明日再考の上、一族の経営会議に掛ける。正純は総裁となるべく育てられてきた身なので、広範な知識をある程度の深さで備えてはいるが、専門的知識となると少し難があった。この右の書類の山のうち、いくつかは実際に企画として実現される。この自由度が結城コーポレーションの結城コーポレーションたる所以である。
(……もう少し、気楽にできればいいんだがねぇ)
 生真面目な顔で書類を読みながら正純は小さく溜息をつく。
 カップに入ったコーヒーを傾けたつもりでいたら、恐ろしいことに中身がココアだった。よくぞココアをここまでコーヒーに似せたものだと一種感嘆する出来である。変な話だが付け焼刃でここまではできない、恐らく相当の準備をしてきたのだろう。普通、一族はともかく秘書がこれをすることはないのだが、立場上の理由か、彼女は行動でもってエイプリルフールを実行することも多い。
「どうせなら、君も企画を出せばいいのに」
「……いえ、料理は趣味なので」
 今ひとつ、噛みあっているのかいないのかわからない会話である。正純は一瞬「これはパーティーグッズにならないかな」と考えたが、多分相当面倒な方法で作っているのだろうなと彼女の目の下の隈を見て思ったので、あえて問い質すのはやめておいた。後ほど自分で研究しよう。
 書類を黙々と処理しながら正純は、毎年この日になるとどうにも考えずにいられないある一つのことに思いを馳せた。
 自分にもユーモアを理解する感覚がないわけではない。この油断できない一族や会社に属していることは面白いことだと思うし、「好き」という言葉だとなにか少し違う感じがするが、ともかく、嫌いではない。多分、世間一般の人間よりよほど頭は柔らかい。
 ただそれでいて、どうもさほど積極的に、自分でそれをしようという気になれない。
 自分の父である結城滋隆を見ていればわかることだが、『彼ら』は呼吸するようにそれを実行する。当たり前のこととして、ほとんど本能的に、人を欺く千変万化の道化となり、時には己を苦境に追い込むことすらあるような、常識外れの何かを成し遂げる。
 それがこの一族に昔から受け継がれてきた在り方で、特に第一子にはその傾向は極めて顕著であるのだが、正純にはどうにもそれがうまく掴めなかった。他に何も証拠はないが、これだけを根拠として未だに拾われ子なのではないかと考え込む時があるほど、何とも周囲から浮いている感じがするのだった。彼らと同じように振舞うことはできる、だがそれは呼吸するようにすることではなく、明らかに頭で考えて行動している。
 何かが違うのではないかと思うことがよくあった。端的に言うと、空気が読めていないのではないかと思えてしまうことが。誰もそれを責めはしない、だが、引っ掛かりがなくなることは決してない。
 だから正純はこのイベントに、受身の形でしか参加しないのだ。あと一歩のところで何だか楽しくない、そういう感覚が拭い去れないままに参加することに意味はないと、そう思うからである。……早い話が、こういうところで自分は理屈っぽいのだと思う。
 書類を話半分に読みながら、気になる事項をチェックしていく。
 ……と、不意に部屋のドアをノックする音がした。
「……?」
 書類は専用のエレベーターで上がってくるし、ある理由から今日この部屋を訪れるものは少ない。因みに二十四時――正確に言うと二十三時五十九分五十九秒までにこの部屋に届いていれば四月一日受理分として処理されるので、このエレベーターも終盤は異常な混雑を見せるのだが、それはともかく。
「どちらさまですか?」
 書類に目を戻した正純を見て、代わりに秘書がドア越しに訊ねた。遠慮がちな低い声が応える。
「瀧村病院の者ですが、結城正純さまはこちらですね?」
「え? ……あっ。……はい。どうぞ」
 秘書は日頃の落ち着いた言動を一瞬忘れた返事をし、部屋のドアを開けた。ごく年若い女性が姿を見せる。隣には若くして隠居を決め込んだ結城滋隆が、茶目っ気のある笑顔を見せていた。
「ええと、先ほどお電話申し上げたんですけど繋がらなくて。院長に『お前行ってこい』と言われましたので……」
 落ち着かなさそうに頭を下げて女性は室内に入った。
「ええと、お子様がお生まれになりました」
「そうか、ご苦労」
 正純は顔を上げてまず滋隆の顔を見、ついで女性の顔を見て、なかなか演技派だなと思う。
「それでは気をつけて」
「え? は。はい」
 どう見ても露骨に動揺した顔をして女性は退出していく。
 それにしてもどうも、見覚えのない顔だ。自分はこれでも社員の顔は全員見て知っているはずだが、途中採用でもされただろうか。それにしても顔は見ているはずだが……。
 万年筆を左手でくるくる回して考え込んでいると、秘書が遠慮がちに口を開いた。
「総裁。今の方は――瀧村病院からいらした方ですよ?」
「……。……なにい!?」
 正純は思わずココアに噎せた。
「くそ、隣に親父がいたせいで何だか普通に聞き流したじゃないか! いつの間に里帰りしてたんだ理加は! お前もちゃんと言えよちゃんとっ!」
「言いましたよ……真面目に」
 秘書が苦笑し、そしてすぐさま真顔に戻る。
「大事なことだと思ったので、いまも真面目に言いました。――行ってらっしゃいませ。お留守は預からせて頂きます」
「……行ってくる!」
 信頼する秘書に一室を預け、正純は廊下へ飛び出した。
 その背を見送り、秘書が室内でぼそりと呟く。
「すいません、私も一度嘘かと思って電話無視しちゃいました」

 正純は廊下を走り抜けようとする。エレベーター前まで辿り着いて、そこで今日が何日か思い出した。
「……」
 たぶんでたらめに動くだろう。非常階段を探そう、そう決めてきびすを返す。
 しかし非常階段さえも普段の位置に開口しておらず、思いもよらない距離を走ってやっと辿り着けば絵だったり、とことんどうしようもなくなっている。火災でも起きたらどうする気だろうと思うが、まあ、毎年恒例なので多分その辺りも対処済みなのだろう。
「……」
 そうか、滋隆が彼女に付き添ってきていたのは護衛兼道案内だったのか。
 苦虫を噛み潰したような顔をして正純は納得する。てっきり何か仕掛けて様子を見に来たものかと思っていたが、あの場所に父がいたこと自体が「彼女が外部の人間である」という証明だったとは。
 やがてどうにか、正純は非常階段を探し当てた。
 数フロア降りれば一般社員が行き交うフロアだから、そこから先のエレベーターはまともに動いているはずだ。
 ……滋隆に便乗できればよかったな、と思わずにはいられない。

 結局正純が瀧村病院に到着したのは、報告を受けてから三時間ほど後のことだった。東京近郊とはいえ比較的空気のいい田舎町なので、やはりすぐに着くというわけには行かない。そこが正純の妻である理加の地元で、瀧村は彼女の旧姓、つまり実家の病院での出産ということである。
 理加は遅いとも何とも言わずに、ただのんびりと微笑んでいた。予定日よりはいくらか前だったが、理加の両親は心を尽くして孫を取り上げたようだった。痛みがないわけでは勿論ないのだろうが、理加の表情からはそれは読み取れない。
「ごめんなさいね、お父さんたちがわがまま言って」
「いや、気持ちはわかるような気がする。それにしても、おまえが俺に直に話もせずに帰省してるとは思わなかったがな」
「あらごめんなさいね、急いでたの」
 理加は苦笑して正純の頭を撫でた。
「それに、今日いっぱいは色々忙しいだろうと思ったから。間に合いそうなら知らせるつもりだったけど」
「あー……それはすまんな、気を使わせて」
 確かにこうしている間にも、正純の執務机には半分ジョークのような書類が大量に積み重なっていくのだろう。
「この子、思ったよりせっかちな子だったわね」
「本当だな、もう少し先かと思って油断していたんだが」
 それにしても、我ながら妻が入院していることに気づかないのはどうなのか、と正純は思う。年度末や年度初めの進行も含めここ暫くは忙しくしていたから、多少は仕方ないのだが。これでは理加の両親にも頭が上がらない。
 理加が、自分のベッドにくっつけて置かれた小さなベッドに手を伸ばす。少し小柄な体格の赤子は、その指にしがみつくように小さな手を握った。
 数日後に結城秀一と名づけられ、極めて特殊な環境の中で育ち大層有能な謀略家となるところの彼も、まだ目も開かぬ今だけは安らかに眠り、母の胸に身を預けるのに違いなかった。




閉じて戻ってみたりしてください。


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