連理の枝-Yggdrasill II-

 ばたばたと荷物をまとめて靴を履く。あ、帽子を忘れた。戻る。あ、財布入れてない。また戻る。
 いつものように慌しく出かける準備をしながら、あたしはいつになく焦っていた。今日の外出はちょっと普段のとは話が違う。学校に行くとかバイトに行くとかその程度の話じゃない。
 恋人が、失踪したんだ。
 連絡を受けたのはついさっきで、しかもその時点で失踪から丸一日とかいう話だったらしい。時々あることだけど、ちょっと喧嘩してて連絡を取らなかったので、なんかバイト先の人だか家族だかが気がつくまであたしは全然知らなかった。
 で、この有様だ。鍵を掛けて階段を駆け下りる。マンションのある路地を飛び出すとすぐバス停があって、そして都合よくお客さんが乗り降りしている最中だった。飛び乗る。
 バスが動き出したところで、あたしはふと我に返る。……このバス、どこ行きだろう。というかあたし、どこに行けばいいんだろう。
 街の中心部、駅に向かってるらしいバスの後ろの方の座席で、バスの中なので電源を切った携帯を左手に、あたしは座り込んで頭を抱えた。

 駅で降りる。とりあえず、彼――孝広のお母さんから聞いた話を反復してみる。
『昨日の朝――いえ一昨日の晩から誰も姿を見ていないみたいなの。テーブルに、旅に出ます、探さないでくださいって……』
 何て古典的な失踪。あまりにもステレオタイプすぎて涙が出る。
 旅に出る。旅。旅。旅。そうだ京都行こう、じゃなくって。
 旅に出る、かあ……孝広が行きたい場所って、どこなんだろう。というかそもそも、旅に出るって本気にしていいんだろうか。見事に何も考えずに飛び出してきちゃったけど。
 駅を前にして考え込んでいると、びり、とバイブレータが着信を告げた気がした。見もせずに反射的に電話を取る。
「はいもしもし、ええと――」
(南行きの電車に乗って)
「南ね、わかった!」
 即答して切符を買った。改札を通り抜けて電車に飛び乗る。
「どこまで行けばいいの?」
(……)
 どことなく苦笑しているようなニュアンスの吐息が聞こえて、
(海の見えるところまで。とりあえず。その後の指示は出すから、そのまま聞いていて)
 そう返事が返ってきた。
「わかったわ」
 携帯を使っているので、優先席から離れるように、リュックを担いで移動する。海……ここから南に行った海ってことだと、多分隣の県から見える太平洋だろうか。そうだとするなら、まだ十数駅先。とりあえず、慌てて随分疲れた。寝よう。
 あたしは目を閉じる。時々困るぐらいの寝つきのよさはこんな時でも健在らしくて、途端に眠りが訪れた。

(起きなさい、乗り過ごすよ)
「うわっと」
 携帯を耳に当てたまま寝ついてた。慌てて起きたから睡眠時間が足りなかったのかもしれない。
 あたしは荷物を引っつかんで電車を降りる。見慣れない駅の名前。これは……ほとんど終点に近いみたいだ。精算しないと。
 精算機で精算して改札を抜ける。当たり前だけど知らない街に出た。……なのに、何でだか分からないけどどこかで見覚えがあるような気がする。海は、どうやら海水浴場らしいのが向こうの方に見えている。
(そっちじゃない。先に少し北、……左の道へ)
「左ね」
 指示に従って歩き出す。……おかしい。なんか、この道は歩いたことがある。
(そこの曲がり角を折れて……大きな通りに出たら少し右に行って、看板の指示に従って)
「看板?」
(そう。……それを見れば、もう思い出せるでしょう。君はこの街を知っている。想い人は思い出の場所にいる)
 言われたとおり、看板とやらを目にしたとき、あたしはようやく思い出した。この街には来たことがある。小学生のとき、今から十年ほど昔に。学校行事、多分臨海学習で。
 そしてこの街で孝広のいるのが、思い出の場所だって言うのなら――それは多分、あたしと孝広が最初に二人きりで行った場所だ。
 二人でこっそり抜け出して探検した、その場所だ――。
(思い出したね? さあ、行ってあげなさい。後は、君たちの物語だ)
「うん、ありがとう!」
 あたしは携帯をポケットに突っ込んで走り出す。この角を曲がって、みんなで泊まったホテルを横目に見ながら岩場を降りる。小さな砂浜が見えるその場所で――孝広は服を着たまま、波打ち際に横たわっていた。
「……!」
 息を呑む。ごつごつした岩場を、擦り傷ができるのも構わずに滑り降りる。
「孝広!!」
 砂浜に膝を突いて、押しつぶすぐらいの勢いで覆いかぶさると、弾かれたようにそのまぶたが開いた。
「え、美由!? お前どうしてここがっ」
「……っ」
 どうしても何もない。無事だった、それだけでもうあたしは感情が抑え切れなくなって泣き出していた。
「うわ、ちょっ、ごめん俺が悪かった! 俺が悪かったから泣くなー!」
 涙の雨の下で孝広が大慌てしていたけど、止められなくて。
 あたしは孝広にしがみつくようにして、子供みたいに泣いた。

 ……結局、泣き止むのには十分ほどかかった。
「……なあ、どうしてここだってわかったんだ?」
 あたしの頬を手で拭いながら、本気で不思議そうに孝広が聞いてくる。
「え? ……あれ? いや。電話がかかってきたはずなんだけど。……誰からだっけ」
 今の今までずっと話していたはずなのに、その声すらもう忘れてる。静かであったかい声ではあったけど、耳に残らない。着信履歴を見ようとして携帯を見たら、電源すら入っていなかった。
「……あれ? ごめん、わかんない」
「何だよわかんないって。じゃあお前、なんでここに来たの」
「なんでって……何となく?」
「何となくで見つかるか、こんなとこ!」
 言って孝広は苦笑いし、あたしの頭をくしゃくしゃにした。
「……まあいいよ、お前のわかんないのはいつものことだもんな。――ありがと、美由。迎えに来てくれて。正直、行くのも帰るのも面倒で、ずっとここにいようかと思ってた……無理だけど」
「……ううん」
 孝広こそありがと、帰って来てくれて。
 そうあたしは笑って、孝広にぎゅーっと抱きついた。ちょっと待てやめろお前まで濡れるから、と慌てて逃げようとするのを掴まえて離さない。
 もうどこにも行かないで、言うと抵抗の動きが止んで、温かい手が頭の上に降りてきた。
 うん。幸せだ。
「これじゃ電車乗れないな、お互い。今日はどこか泊まって、明日帰ろう。授業大丈夫か?」
「ん、大丈夫」
 たとえ多少大丈夫じゃなくたって。
 孝広の無事に替えられる授業なんて、ない。
「……とりあえず卒業はしろよ?」
「うん。あ、着替え持ってきたからね孝広の分も。どこでも泊まれるよ」
「き、着替え? お前……ほんと何考えてんのかさっぱりわかんねえよ!」
 笑いながら孝広があたしを小突く。わかんなくていいもん、とあたしも笑う。徐々に沈んでいく夕日が、長い影のそんな賑やかな動きを砂浜に映してる。
(……。永久に続け、連理の枝――)
 潮の香りの風に乗って、囁くような声と静かな笑いが、ゆっくりと吹き過ぎていった。




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