ユグドラシル-Yggdrasil-

 深く静かで緩やかな眠りから覚めると、真っ白な部屋の中にいた。
 清潔感のあるベッドから身を起こす。誰もいない、とても静かな部屋の中を、穏やかな風が吹き過ぎてゆく。
 眩しくはない程度の光に満ちた、そこは病室に似てはいたが病室ではありえない雰囲気をかもし出していた。窓の外の青い空。窓際には小さなアジアンタムの鉢。白で統一された家具は最低限しか置かれていない。こんな部屋で眠っていたいと、ずっと思っていたような気がする。安堵の息を吐いて再び横になり、まぶたを閉じる。眠気はもうほとんどなかったが、風が行き過ぎる音さえ聞こえそうな静けさの中で目を閉じているだけでも、ひどく安らかな気分になれた。
 静かだ。……とても、静かだった。
 煩わすものの一つもない、本当に幸福な静穏。
 自分はこれを求めていたと確信する。その前にどうしていたのか、全く思い出せないけれど。
 薄い微睡みの中、このままずっといられたら、と願う。
(――ほんとうに疲れていたんだね……それでも、君は、そろそろ還らなきゃいけない)
 それは不意に、まるで風が舞い込むように滑り込んできた。空気の振動を伴わない声。そして直後に、こと、と音がした。
 静かな部屋の中で、目を閉じたまま、音を探る。静かだ。半ば意地で目を瞑っていたが、やがて諦めて部屋を見回すと、ベッドサイドのテーブルに水をなみなみと湛えたコップが置かれていた。
 他に何の音もしなかったのに。
 不思議に思うよりも早く、立ち上がってそっと手を伸ばしていた。その水がとても魅力的に思えたのだ。零さないように慎重に、口元へと運ぶ。
 それはただの水だったけれど、甘露と呼ぶのに相応しい、いっそ慕わしいくらいの味に思えた。飲み干す。足りない、と思うといつしか再びコップが満たされている。
(……命の樹に、水をあげよう)
 また先ほどと同じ声がした。
 気にも掛けず、長らくの渇きを癒やすように水を口にし続ける。普通ならすぐに「もういい」と思うはずなのにいくらでも欲しくなる。 (……ひとは豊かな命の樹。地に根を張り、揺るぐことなく枝葉を伸ばせ。陽を受けて輝け、ユグドラシル――)
 密やかに抑えられた、優しく静かで暖かな声に伴って、徐々に視界がホワイトアウトしていく。やがて眩しさに目を閉じると、今度は懐かしい人の声が聞こえてくるような気がした。

「……東城さん? 目が覚めたのね」
 目を覚ましていきなり耳に飛び込んできたのは、人の声だった。左からだったが視界は右半分しかない。驚いて顔を左に向けると首から肩から痛みが走って、思わず小さく声を上げた。
「ああ、無理しないで。大変だったんだから」
 顔を覗き込んだのは年配の看護婦だ。ならばここは病室なのだろう。何故自分はここにいるのだろう、そう思った時に全てを思い出した。
 ……何もかもどうでもよくなって道に飛び出したのだ。受験のストレスや、友人関係のトラブルや、家族と分かり合えないこと……色々なことが全部嫌になって、気づいたら飛び出していた。
「身体には大して別状ないわよ。左目も包帯が取れたら普通に見えるようになるから、安心して」
「……ありがとうございます」
 口元も痛む。それでも言いたかった。
「ほら、無理して喋らない。ああそれと、意識が戻ったら知らせてくれって親御さんに言われているけど、すぐお知らせする?」
 一瞬息を呑み、けれど嬉しくなって答えた。
「お願いします。……会いたい、から」
 嫌いだった、ような気がする。その縁はすれ違うばかりでひどく空しく頼りなかったような気がする。だが、そんなことは気にならなくなっていた。頼りないなら支えればいいと、自然に思えた。
 それはまるで、世界に根ざした樹のように。
(強くお育ち、命の若木)
 穏やかな秋風の中、そんな声がした気がした。




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