水辺小話

 春。……否、ひとによってはもう初夏と表現するのかもしれない、あたたかい日差し。
 それなりに広い公園の片隅に、小さな人工の水場があった。日差しの下でぬるむ水を、くすぐったいほどの数のオタマジャクシが揺らしている。大きなもの小さなもの、いくつもの種類のカエルのこどもたちが泳ぎ回っている。水底に落ちた影と区別のつかないような、無数の黒い身体。
 水の中はにぎやかで、まるで祭りのようだ。けれどこんなに小さな池の中でも自然はそれなりに過酷で、水面からくちばしを伸ばすカモがオタマジャクシたちのほのかな命をおびやかしている。まだ姿を見せないが虫のたぐいも彼らを捕らえるし、時にひとが放ってゆく魚たちの糧となるのも彼らだ。もちろんそんな捕食では到底追いつかないほどに、多くのこどもたちが泳ぎ回っているし、彼ら自身もたくさんの小さなものを食べているし、なによりこれがこの季節、当たり前の光景なのだけれど。
 ……そんなささやかな水辺に、今日はふたりの学生の姿があった。
「うっわ、すごい真っ黒。これが全部カエルになったら大変ねぇ」
 先に辿り着いた娘が水面を覗き込んで嘆声をあげる。
「んー、それはちょっと……どうせ育たないのもいっぱいいるんだろうけど」
 後から来た娘が言いながら覗き込む。ごくりと唾を飲む音が聞こえた。隣の娘の袖を掴み、呻く。
「ちょ……っと、気持ち悪いよ、コレ」
「そう? あたしは可愛いと思うけどね。いやまぁ、数が多すぎるとは思うけどさ……ほらだって一つ一つ見れば」
「可愛くないって……」
 自分はどう間違ってもこれを「可愛い」とは思えない、と娘は言う。だが言いながらも、時折その目線はオタマジャクシを追いかけて泳いでいた。見たくもない、ということではないようだ。
「……あんた水族館とか嫌いなほうだっけ。冷たい生き物、嫌い?」
「強いて言うとあんまり好きじゃない、かなぁ……」
 っていうか水族館にオタマジャクシはあんまりいないよ、言いながら娘はもう一度水面を覗き込み。
「あ」
 不意に、声を上げた。
「……なに、これ。私、映って、ない」
「え? ……あ」
 そう。
 一歩引いた姿勢から、再び覗き込む形になっても――ひとり分の姿しか、水面は映していなかった。水底にははっきりと、ふたりの影があるにもかかわらず。
 娘たちは目をまたたきながら色々な位置に移動し、水面を覗き込んでは確かめた。どこから日を受けてもふたりの水影が揃うことはなく、ふたりめの娘の影は水底にだけ落ちて、オタマジャクシたちを驚かせるのみだった。
 ひとりめの娘が鏡を取り出し、ふたりめの娘を映し出す。小さなその手鏡には、ふたりめの娘の姿は映っているらしかった。
 もし鏡にも映らなければ、ひとりめの娘は逃げ出していたかもしれない。
「……えーと……うん。サト、大丈夫だよ。きっと服の色とかそんなんだって」
「……うん……」
 明らかに腰の引けたような声音に「信じられない、ありえない」と言外に言われながら、ふたりめの娘は不安そうとも何とも言いがたい表情でいた。
 その目は感情の無い、黒くつぶらな美しい瞳。
 小さなオタマジャクシを無意識に追うばかりの、つややかに静かな、双眸。
「……サト。こんなとこ早く離れよ、ね」
 その様子をいささか不気味にでも思ったか、今度はひとりめの娘がふたりめの袖を引いた。
「……うん」
 去り際……サトと呼ばれた彼女がこちらを見下ろすその目は、何とも言えぬ、色を湛えて。

 その、夜。
 行き交う車も減り、人気の絶えたころ、誰かの息づかいが近づいてくるのを察して生き物たちが押し黙った。
 息を弾ませてそれは立ち止まり、そしてしばしわたしを見下ろす。
 心を決めたように大きくひとつ息を吐き――

 ぱしゃん。

 魚が水面を跳ねるような、音。
 ……いつも以上の静寂が辺りに戻り、そして、すぐに生き物たちの静かな息づかいがまた聞こえ始める。


 ……お帰り、わたしの愛しい子。己を捨てた主には、おまえはよもや逢えただろうね。
 おまえの強い望みに応え、おまえを陸に上げようと、蝦蟇の女王が与えた力。なのに女王の子らの姿が、おまえを水に引き戻した。
 蝦蟇の女王の手落ちだったか、それとも彼女の復讐か。彼女のこどもたちの姿を目で追ってしまう己を知れば、おまえはここに戻るしかないと、そう定めたのは誰だったのか。
 ――否、どちらでも構うまい。
 いずれにせよもう二度と、水面の上には戻れない。命尽きるその日まで、このわたしの懐に生きるのみ。
 お帰り、わたしの愛しい子。
 ……お帰り、愚かな金魚姫。


 翌日の昼、あのふたりの片割れが、ひとりでやってきた。
 そして、つややかな橙色の鱗をきらめかせ、わたしの中から小さな金魚が彼女を見上げているのを……ささやかな影を、水底にひらめかせるその姿を。
 ずっとずっと、見つめていた。




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