潮の匂い

 今夜中の卒論の完成を諦めてパソコンの電源を切り、俺は大きく伸びをする。電気スタンドに手を伸ばし、スイッチの手前に置かれていた小瓶を枕許に移した。これが俺のお守りであり、宝物でもある。いつも俺を見守ってくれたひと、写真一枚残さずに去ってしまったひとの思い出を、より確かにするための鍵。二十歳も過ぎた男がこんなお守りなんて女々しい、としばしば失笑を買うが、俺は気にしたことがない。これにはそれだけの意味と価値があると思うからだ。
 その思い出に登場するひとは、汐という。

 汐は俺の幼馴染みだ。
 幼稚園、小、中、高と同じところに通い、大学までも同じ学校に入学した。不思議と一度も同じクラスになったことはないが、帰る方向がいつも一緒だったのでクラスメート以上に親しかった。俺の子供時代の思い出は、ほとんど汐とのものであるといってもいいほどだ。
 その汐と離れる羽目になった原因は、俺にあるのかもしれない。気づけというほうが難しい話ではあったが、俺が余計な詮索さえしなければ、汐はまだここにいたかもしれない。
 今思えば――そう、全く何気ないあの問いが、紛れもなく終わりの始まりだった――。

 夏の終わりのある夕方のことだ。俺は窓際に張り付いて涼を取り、汐はうちわで顔を仰ぎながら、その大体対面の壁に寄りかかっていた。
「いつも思ってたんだけど、汐。それ、何飲んでるんだ?」
ペットボトルの中の僅かに濁った液体を指して問うと、汐は一瞬驚いたように目を見開き、それからボトルを翳すようにして軽く振った。少し濁った中の液体が僅かに泡立つ。
「これ?……海水だけど」
「へえ……って、海水っ!?」
 聞き間違いかと思ったが、彼女は頷いた。
「そう、海水。……しかも東京湾の」
「東京湾っ!?」
 いやそれ絶対謎の微生物とか寄生虫とか浮いてるから!汚いから!
 思わずちょっと引きながら俺が指摘すると、汐はくすくすと笑う。
「判ってる、確かに綺麗じゃないよ。でもしょうがない、これが私の故郷の海の水だもの」
「……いや、そりゃそうだけど」
 しかし俺は冗談でもそれを飲む気にはなれない。というか、
「……海水って、海水だろ?海洋深層水とかじゃないんだろ? その……塩辛くないか?」
「んー、塩辛いと思うよ。だから人にはあげたことない。私は慣れてるから、どうってことないけど」
 第一、海洋深層水だって塩分抜いてるのよと彼女は笑う。笑い事じゃねえよと俺は呻く。
「長生きできないぞ?」
「大丈夫、自分は自分が一番わかってる」
 微笑した彼女の顔を、落ちかけた夕日が撫でる。それが不穏なほどに朱く、儚い印象に見えて、俺は思わず彼女を抱きしめた。
 ……ちょっとだけ、東京湾の匂いがした。

 それから大体一週間が過ぎた。いつ汲んでくるのか判らない海水を飲む汐の習慣は変わっていなかったが、しかしあの日からその顔色は日に日に悪くなっていることに俺は気づいていた。
「……さて、そろそろ出かけようか」
「ん」
応じて立ち上がった汐の身体が、不意にふらりと揺れた。取り繕うようにかるく笑う。
「あ、あのね大丈夫なのよ。ちょっと昨日寝不足でね、それで」
 苦しい言い訳を見ていられなくなって、俺は汐の手を取った。
「……汐。病院行こう」
「え、病院……!?」
 汐は驚きの表情を浮かべた。
「待ってよ幸彦。病院はちょっと……」
 ドアノブに片手をかける俺に引っ張られた汐は、壁の出っ張りを掴んで抗う。
「何でだよ。毎日やつれてきてるじゃないか、早く診てもらったほうがいいって!」
「いや、それにはちょっと理由が……お願い待って、私保険証持ってないんだってばっ」
「う。……いやいいよ、俺が払う。ほら――」
「駄目だってば……っ」
 引っ張り返す彼女の力が予想外に強くて、俺はドアを開けられない。……これだけの抵抗ができるなら、大丈夫だろうか?
「……判った。その代わり海水はやめろよ。汐は東京に出てからどんどん弱ってきてるだろ。東京湾の水なんて飲んでるからだ」
「……。そうね、判った。やめるわ」
 汐は微かに苦笑した。

「……そろそろ、潮時ね。病院に連れて行かれたりしたら、ばれてしまうもの」
 夢うつつの意識で、俺はそんな声を聞く。
「私には東京湾の水が合わなかったのかしら。やっぱりあなたに聞かれた時点で、少しでも疑われた時点で、諦めておくべきだった。変に期待をもたせてごめんね。……おやすみ、幸彦」
 ……汐。どこに行くんだ、汐?
 待てよ。俺に黙って、どこかに行くなよ。
 汐を掴まえようと挙げた手は空を切って、そのまま俺の意識は途絶えた。

 目が覚めると汐はいなかった。
 ただメモが一枚残されていて、そこには一言『さよなら』とだけ書かれていた。
 俺は慌てた。汐は怒っていたのだろうか。彼女の出かける先なら俺はほとんど全て知っていたが、だからこそそのどこかにいるとは考えにくかった。それではすぐに判るからだ。
 慌てて携帯の電話番号を探った。汐自身は携帯を持ってないので、汐と喋っていた覚えのある女友達に掛ける。
「辻村! 汐、汐がいなくなったんだ。どこに行ったか知らないか!?」
「何、こんな朝早くから。……塩? 台所用品ならスーパーに行ってよ……もう切るよ」
 ぷつっ。
 無常な音と同時に電話が切れた。掛けなおしても繋がらない。あいつめ電源ごと切りやがった。俺は迷惑も考えず汐と話していた記憶がある連中全員に電話を掛けまくったが、誰一人としてまともな回答を返してはこなかった。そもそも「汐」という単語を固有名詞として捉えてすらいないのだ。
 ……誰も汐を覚えていない。その事実に気づいたとき、俺は背筋が冷えるのを感じた。
 慌てて本棚に駆け寄り、一番下の段を引っくり返す勢いで子供の頃のアルバムを引きずり出した。『幸彦五歳 千葉九十九里海岸にて』『幸彦七歳 仙台青葉城にて』『幸彦八歳 大阪通天閣にて』……アルバムに添えられた几帳面な文字は父のものだ。早くに妻――俺の母を亡くした父は、転勤族というハンデを抱えつつも、男手ひとつで俺を育て上げたのだ。俺はその字を追いながらアルバムのページを繰った。確かに汐と駆け回った思い出を残す場所も含め、どの写真にも汐の姿はなく、しかし俺は楽しそうに笑っていた。
 ……待て、冷静になれ。何かがおかしい。
 俺は目を閉じ、汐のことを一つ一つ思い返してみる。浜で遊んだ思い出が多い。しかし全ては俺と汐の思い出ばかりで、俺は汐の家族のことや苗字すらも覚えていない……そこに思い到って、俺はようやく根本的な矛盾を発見した。
 気づいてみれば、何故それまで判らなかったのか不可解なほどに明らかな、矛盾。
 転勤族の父に連れられて日本各地を渡り歩いた俺に、幼馴染みなどいる訳がない。
 だとしたら彼女は――。
 頭痛さえ感じ始めながら窓を開ける。大きく深呼吸をすると、少しパニックが収まった。
 振り返った部屋の中から、ほんのりと海の、潮の匂いがした。

 それから暫くして俺は海に行き、小瓶に乾いた砂を詰めた。残念だが海水では長く持たないから仕方がない。きつく嵌めた栓の中に、海の砂と空気と汐の思い出を閉じ込めたそれを、今も俺は肌身離さず持ち続けている。いつか海の傍に住む日まで、手放す時はこないだろう。
 その時にこそこの砂と一緒に、あのとき言い残した感謝と惜別を、汐に返すつもりでいる。




POT作品インデックスに戻る


[PR]動画