しきたり

 私が幼い頃住んでいた家には、不思議なしきたりがあった。それは「決して部屋のドアをぴっちりと閉めてはいけない」ということである。私はそれを、同居していた祖母から聞いた。
「お使い様がお通りになるからね、道を塞いではいけないんだよ」
 お使い様というのが何のことなのか、その頃の私にはわからなかった。でも祖母のことは大好きだったから、大人しくその言葉に従っていた。小学校も高学年になってだんだん恥じらいを覚え、トイレのドアやなんかはさすがに閉めたい、と言うと、その翌日にはドアの片隅が四角く切り取られた妙な形に変わっていた。何か本末転倒な感じもしたが、まあ、ドアは閉められたので文句は言わなかったと思う。信心深かった祖母は、他にも家のあちこちにお札を貼ったり、神棚に毎日挨拶したりしていた。
 その頃――というのは私が大体小学校四年くらいの頃だが、家には父と母、それに父方の祖父と祖母が揃っていた。それどころか曽祖父までいた。さすがに私の遊びに付き合ってくれるほど元気ではなかったけれども、夜中には杖をついてタバコなんかを買いに出たり、散歩に出たりしていた。そのくらいの年になるともう誰もタバコやお酒を止めたりしなかったようで、曽祖父の周りにはいつも煙の臭いやアルコールの臭いがしていたから、私はあまり曽祖父の傍にいるのが好きではなかった。他にも私には年の離れた兄と姉がいたが、結婚や就職なんかで他所の町に出ていて、ほとんど戻ってくることはなかった。
 その町は子供の少ない町で、私の通っていた小学校はとても小さかったし、遊び友達も決して多くはなかった。兄弟も家にはいなかったわけだし、友達もできるだけ連れてくるなと言われていたから、家の中はいつも大人ばかりだった。けれど、私は幸せだったと思う。やはり年をとってからの子だしほとんど一人っ子みたいなものだったので、家の大人たちみんなが私に優しかったからだ。それほどモノを欲しがる子供ではなかったつもりだが、私の周りはいつも、貰ったおもちゃで溢れていた。
 けれどその暮らしは、とても唐突に終わった。
 暫く家を離れていた姉の、たった一度の迂闊な行動によって。

 その日私は、同じ方向に帰宅する数少ない友達と遊んでいて、ちょっと帰りが遅くなった。暮れかけた空の下、夕日に赤く染まった家が私を迎えた。
 その時点で、おかしいな、とは思っていたと思う。
 前日、「明日お姉さんが帰ってくるよ」と言われていたはずなのに、家の中がやけに静かだったからだ。兄や姉がたまに帰ってくると、両親も祖父母も喜んで色々用意するので、決まってお祭りみたいな賑やかさになった――まあ、日頃との比較の問題ではあったが――。
 帰ってこなかったのかな。
 思って引き戸を開けた途端、何か生臭い風が吹きすぎて行った気がした。捌いた魚の内臓を、うっかり一日流しに置きっぱなしにしたときのような、生温かくてむっとくる空気。
 ただごとではない、そう思って私はそのまま家を後にした。ついさっきまで一緒に川で水切りの練習をしていた友達の家に行き、ドアを叩き、電話を借りて警察に電話をした。
 静か過ぎたのだ。そして生臭過ぎた。
 私は友達とそのお母さんと一緒に警察の到着を待ち、結構年の行ったのと若いのと二人のお巡りさんが家に入って行くのを、ただじっと眺めていた。
 夕焼けの朱の気配が消えて、もう、薄闇が辺りを支配していた。

 その後にもたらされた知らせはとても妙なものだった。
 曽祖父を除く家族全員が、家の中から姿を消していたという。飲みかけのお茶、かじりかけの饅頭や煎餅もそのままに、争った跡も何もなく、ただ全員が消えていたらしい。
 そして唯一残った曽祖父は――完全に干からびていた、と巡査は言った。不審死なので有無を言わさず司法解剖にかけられたらしいが、その結果からも、曽祖父がずっと前に死んでいたとしか思われなかったという。夏場だというのに遺体は腐るでもなくミイラみたいになっていたらしい。子供にはあまりにも酷だというので私は見ていないのだが、知り合いだった近所の人たちが、たしかに曽祖父だったと確認してくれた。
 私は何のことやらよくわからないまま、兄に引き取られた。
 ドアをきちんと閉めない私を兄は時々叱った。
 兄は、しきたりを知らなかったのだ。

 多分、というかほとんど間違いなく、あの出来事は祖母が言っていた『お使いさま』の仕業だったのだと思う。それが一体何者だったのかは未だによくわからない。
 けれど、数年後兄と話をしていてたまたま、兄が家を出る直前――私が生まれた少し後に、曽祖父が大きな病気をしたということを聞いた。それを聞いて私は、一つ突拍子もないことを思いついた。
もしかすると曽祖父は本当にずっと前に、私が物心つく前くらいに、死んでしまっていたのかもしれない。
 もくもくと漂うタバコの煙。途絶えることのないアルコール臭。
 そして、家中に貼られたお札と、『お使い様』を惑わす道。
 祖父の部屋の襖には何か妙な文字が書かれていなかっただろうか。天井に御幣のようなものが、飾ってあったような気もしてくる。
 ――多分。
 私は本当は、物凄く危ないところにいたのだ。
 あの日も普通の時間に帰り着いていたら、生きたまま曽祖父と一緒に連れ去られてしまったのだろう。私の家族と同じように。
 ……そう思えば、置き去りにされた悲しみより、家のローンとか山のような問題を残された恨みより、薄情ではあるけれど生き延びられたことを喜ぶ気持ちが、起きてきてしまう。だから、一度結論にたどり着いてしまってからは、あまり深くは考えないことにした。

 そして今、私には結婚を約束した彼がいる。
 ついさっき、彼の実家を訪ねて、彼の両親に会ってきた。
 人のよさそうな初老の男女。奥の間にはその母親が寝ているという話を聞いた途端、私はぞっとした。
 家中色々なところに、目立たないように貼られたお札が見えてしまったのだ。何気ない顔で障子を見れば――完全に日本家屋だったので全部の部屋が引き戸か障子か襖で仕切られていたのだが――不自然に右下の角だけ、全部の障子が破られていた。
 通っている、と思った。
 まぎれもなく、そこをあれが通っていたのを、私は感じた。
 私を追いかけてきたのか、全く別個のものかはわからない。
 でも、あの家には嫁げないと思う。
 私は電話をかける。ごめんなさいと謝って別れを告げる。激昂した彼が追いかけてくるのから逃れるために、必要最小限の荷物だけ持って暫くホテルを点々とした。

 しきたりについて何も知らなかった彼とその一家が失踪したのは、十二月の末。
 障子を張り替えた、その夜のことだった。




POT作品インデックスに戻る


[PR]動画