鍵っ子

 ――いいこと康司、お母さんはこれから毎日お昼は留守にするから、あなたは鍵を持って学校に行きなさい。ひもに付けてあげるからね、毎日首に掛けていくのよ。忘れたらお家には入れないからね。
 うん。
 ――昼間、お母さんがいない間に遊びに出かけてもいいわ。そういう時は必ず、鍵を掛けて出かけなさいね。悪い人たちがお家に入ってこないようにね。お約束よ。わかった?
 うん、わかったよお母さん。
 ぼくお約束はぜったい守るよ。ぜったいぜったい守るよ。
 だからお母さん、お父さんと仲よくしてね、おねがいだよ……。

 ……結局はその願いは叶わなかった。父と母は僕が中学に上がった頃に離婚し、僕はその後も数年間にわたり鍵っ子生活を続けた。生活費は幾らか父から得ていたものの家計は結構危うかったらしく、母は夕方遅くまで働いていて、部活帰りの時間にすら家は真っ暗でうそ寒かった。
 そして、独り立ちした今も僕は母との約束を守っている。毎日鍵を掛けて会社へ出かけ、夕方まで働いて、帰ったら自分で鍵を開ける生活を続けているのだ。鍵を吊るしているものは――今更化繊のひもでもないだろうから――金の鎖に変えてはいるけれど。
 ……つくづくと、鍵とはいいものだと思う。
 近頃ピッキングとかサムターン回しとか流行っているが、僕はその都度ドアの鍵を最新式のものに取り替えてきた。おかげで一度たりとも空き巣に入られたことはない。近所で盗みが再三発生していて物騒だという話はよくするものの、僕は自分の防犯策に不安を感じたことなど一度もないのだ。数年前に結婚した可愛い妻も僕の言うとおり、毎日必ずきちんと施錠して待っている。
 僕は今、とても幸せだ。
 この時間に鍵を掛けて、永久にこのまま留め置いてしまいたいほどに。

 そうして過ごしていたある日、僕に二ヶ月の海外出張が言い渡された。
 出かける前に、僕は家中のありとあらゆるものに鍵を掛けて回った。そうしてちょっとした重さになった鍵束をトランクにしまって僕は家を出た。
 この重みが僕をとても安心させてくれる。勿論一番大事な鍵は首に掛けているけれど。
 何の不安もなく僕は空港に向かい、そこから任地へと飛び立った。

    *  *  *

 康司がマンションを出るや否や、室内にいた女は忙しなく動き出す。夫の仕事机の近辺で何かの書類を作成したあと、彼女は荷造りを始めた。大きなスポーツバッグに張り裂けそうなほどに荷物を詰め込んで外へと飛び出す。エレベーターの前まで移動したところで、彼女は思い直したように自宅のドアの前まで戻って、鍵穴に銀色の鍵を差し込み、一際大きな音を立てて乱暴に施錠した。
 ……鍵の弱点はプロの泥棒に弱いことではない。中からの動きに対しては、全く無力であることなのだ。

「隆、悪いんだけど暫く泊めてもらえる? 出来るだけ早いうちに住む部屋探して出て行くから」
 大荷物を持って突然部屋に訪れた幼馴染みの姿に、隆は目を丸くした。
「いいけど……。どうした?」
 視線の先で彼女は鬱陶しそうに首を振る。量の多い髪をまとめていたバレッタが弾けたのを、舌打ちして彼女は拾った。どうもかなり虫の居所が悪そうである。
「ああもう。……ちょっと今回ばかりは、このあたしも愛想が尽きたのよね……。あの人絶対偏執狂よ。家中鍵だらけにして、鍵束ごっそり持って出かけるんだもの」
「うわ、それは大変だったなー。よく今まで耐えてたな、美紀」
 相槌は打つが、実際眉間のしわが雄弁に語るほどの彼女の苦労がわかったとは思わない。
「ま、それさえ除けば、収入もそこそこだし見た目もいいからね……。でも我慢できないことってあるものね。ほら見てよコレ……」
 襟元を開いた女――美紀の胸には、小さな金色の南京錠が光っている。それは表面にかなりの装飾が施されたアクセサリーだったが、しかし彼女の顔つきからすれば、実際に鍵としての機能も持っているのだろうことは明らかだった――もっともその南京錠はペンダントの鎖に通っているだけなので、実際には何の効果もなさそうではあったが。
「……帰ってきてドアを開けると、彼、まず最初にこの鍵を外すの。ただいまの挨拶より先に。……何かもう気持ち悪くて……」
「……そりゃあ」
 何と言ったものかわからなくて、隆は半端な声を上げた。
「あたしも専業主婦なんか始めたのが悪かったのかしら……合鍵はあることはあるけど、一日中鍵だらけの部屋の中なんかで暮らせないわよ。正直気持ち悪いわ」
「んん。そうだろうな……」
 彼女の実家は逆に常時鍵が開いているような家だった、思いながら隆は頷く。それが特に無用心だったというわけではない。当時彼らが暮らしていた辺りはかなりの田舎で、近所の人々が平気で入ってくるし、それでも何の問題もないような地域だったのだから。
「……あたしの荷物は全部持って出てきたの。判子の入ってるとこの鍵だけ壊して、他所に書いた字から写しも取って、離婚届出してきたわ。もうあそこには戻らないわよっ」
 夫の――否、離婚届を出したと言うなら『元』夫の――横暴に憤りを隠せない彼女を見上げて、隆は軽く苦笑した。
 この分では数日は、幼馴染みの手料理と引き換えに、愚痴を聞き続けて暮らす羽目になりそうだった。

    *  *  *

 二ヵ月後、僕は出張から戻ってきた。
 マンションの部屋の前に立って鍵を開ける。
 ――その時僕は、ふと違和感を覚えた。
 空気が冷たい。人の気配がない。それはまるで、昔、誰もいない家に毎日帰っていた頃のように。
「美紀……?」
 リビングに入ると、卓上金庫が開いていた。まさか強盗か何かだろうか、慌てて玄関に引き返して鍵を改めても、乱暴に破られたような様子はなかった。窓、ドア、すべての鍵はそのままだ。ただ卓上金庫と、それが入っていた棚の扉だけがめちゃくちゃに壊されている。多分、傍らに置いてある金槌で壊したのだろう。鍵を掛けた家の中の鍵を掛けた棚の中の鍵を掛けた卓上金庫だから、そんなに頑丈なものでなくともかまわないだろうと思ったのが間違いだったのだろうか……そう思いながら僕は机に近づく。そして、机の上に乱暴に放り出された僕の実印と、蓋が開いたままで乾きかけた朱肉……それから僕の名前を写したカーボン紙を見て、僕はようやく状況を理解した。
 閑散とした部屋、閑散とした空気。その原因は美紀とその持ち物がすべて消えていることだと、僕はやっと思い至った。
 乾いた笑いが零れる。
「はは――」
 無意識に身体ががたがた震えて、胸元で金色の小さな鍵が踊った。
 彼女の錠を開けるための、鍵……もう、全く無意味な鍵。
 何だよ。何だよ。何だよ。
 鍵なんて――鍵なんて何の役にも立たないじゃないか。どんなに厳重な、巧妙な鍵を使っても、本当に守りたいものは決して、手元には残らないじゃないか。
 ……でも。
僕はそんなことはわかっていたんだ。ずっとずっと昔から。
 母さんも父さんを繋ぎとめておくことは、できなかったんだから。
 僕はリビングの真ん中に座り込み、鍵束を真っ白な壁に投げつけた。バランスの偏った鍵束は、少し歪んだ放物線を描いて壁にぶつかる。
 じゃり、と……重くて耳障りな、ひどく気分の悪い音が――した。




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