白い糸の向こうから

 引っ越し荷物を開けていたら、ビニール袋に入った二つ重ねの紙コップが出てきた。大分古いものらしく、形も少し歪んでいる。
「透? 何これ」
「うわ、見つかった」
 透は慌てた様子で私の手からそれをひったくると、色々と方向を変えて眺める。どうも壊れていないか確かめているようだ。
「……よかった」
 安堵の息を一つ吐き、透は大事そうにそれを抱きかかえた。
「これは私物。……って、それ俺の私物ばっかりの箱だよ。何で開けてるんだよ」
「知らないわよ。目立つように書いておかないのがいけないんでしょ」
「いや、書いたって。おかしいな……」
 言いながら箱を改めて透は突っ伏す。
「……しまった、上下逆に書いてた」
「だから箱作ってから書けばいいのに……」
 荷造りのときに注意したのに守らないからわからなくなってしまうのだ。透の私物を覗いてみたい気分もあったけれど、あまりしつこくすると怒るので私はその場を透に譲る。
「……で、それは何?」
「……美和子は覚えてないか?」
 透は少し不機嫌そうに眉を寄せ、ビニール袋から紙コップを取り出した。重ねてあったコップを外すと、底の部分が糸で繋がれているのがわかる。
「昔随分これで遊んだろ。糸電話」
「……。ああ!」
 ようやく私は思い出した。でもそうとわかると却っておかしい。私はこみ上げてくる笑いを押し殺しながら言った。
「そういえば透にあげたんだっけね。まだ持ってたの?」
「……失礼な。持ってて悪いか」
「いや、悪くないけど……」
 明らかに透がむっとした表情をしたので、私はちょっと努力して笑いを押さえ込む。
「お前はそう言うけどな、俺には大事な思い出なんだよ。笑うなよ」
「いや、ごめんホント。ちょっと台所行くね」
 傷ついた顔をされて、私は慌てて部屋を出た。リビングの仕事も大事だけど、他の部屋の片付けも急務だ。何も今不毛な話し合いを続けて、仕事の効率を下げることはない。片付かないと今夜寝るところもないんだから。
 ……それにしても、糸電話を持っていることはまだいいとしても、大事な思い出とか言い出されるとちょっと不思議な気分になるのはしょうがないと思う。透は体格もいいし、色んなことに割と大雑把な性格で、全然そういう感傷的な性格らしく見えないからだ。
 でも……少し失礼だったかもしれない。
 しばらく私は彼のことを気にしながら作業をしてたけれど、やがて実家から貰ってきた物凄い量の食器類のことで頭が一杯になって、いつの間にかそのことは忘れてしまっていた。

 三日後――つまりようやく部屋の中も落ち着いて、買うべきものも皆買って、やっとまともな生活を始めた頃……ということになる。
 その日、夕食の買い物に一人で出たはずの透が、何時になっても帰らなかったのだ。最初は道にでも迷っているのだろうと思っていたのだけれど、時計の針が進んでいくに連れて私はどんどん不安になってきた。
もちろん空腹も耐えがたかったけれど、とりあえずお菓子類や飲み物くらいはあったから耐えることは簡単だった。それよりいつまで経っても連絡もないし帰ってもこない透が気になって、私はひどく心細そうな顔をしていたと思う。タイミングの悪いことに外では雨が振り出したようで、しかも風も強まってきた。この辺りは山奥というほどじゃないけれど、実は人家が結構少ない。一人で広い家の真ん中で座っていると、自分だけ全く違う世界に放り出されてしまったような気がした。
 座り込んでいると不意打ちで雷が鳴った。
「ぎゃっ」
踏まれた猫のような声を上げて、私は文字通りに飛び上がる。雷は嫌いだ。大慌てでうっかり閉め残していたカーテンを閉める。動いていたらだんだん思考力が戻ってきた。
今頃透はどこにいるだろう。些細な言い合いはあっても決定的な喧嘩をしたことはないし、そうだとしても何も言わず出て行ったはずはないだろう。となれば、この悪天候を避けてどこかで休んでいるか、あるいは――
 かたん。
 不意に後ろで音がして、私は慌てて振り向く。ドアの開いた音じゃなく何かが落ちた音。振り返った先には階段があって、そしてその下には、何故かあの糸電話が転がっていた。
「……」
 昨日今日と見てないんだから、そんなところにあるはずはない。でもそこには厳然と糸電話があって、認めない方が難しかった。
 恐る恐る手に取る。もう十年以上前に作られただけあって古いセロテープの痕が汚いけど、何度も丁寧に貼り直したらしくて今のところ糸はしっかりとついていた。
「……どこにいるのよ。馬鹿」
 その修理を施した彼のことが気遣われて、私は思わず糸電話を抱きしめる。外の雷はひどいけれど、電波が通じないようなところで雨宿りしてるとは思いにくい。連絡がないのはただごとではないと考えた方がいいのかも知れなかった。例えば――事故とか。
 でも、だったらどうすればいいのだろう。車は一台しかないし、居所もわからなければ、できることなんか何もないのに。
 思った途端、腕の中の糸電話が不意にもがいたような気がした。私は驚いて手を離す。床に落ちた糸電話は動いたりはしなかったけれど、ほとんど同時に携帯電話が鳴り始めた。
「わっ」
 誰よ、恋人からの着信音を『世にも奇妙な物語』の曲なんかにしておいたのは! と一瞬思ってしまったが、間違いなくそれは私だ。私は膝でにじり寄って電話を取った。
「あ、もしもし、俺、透」
 息が止まるかと思うくらい安心した。
「……ちょっと、何よこんな時間まで連絡もしないで。どれだけ心配したと思ってんの」
「いや、ちょっと訳があって電話できなかったんだ。悪かったと思ってる。ごめんな」
 どうだかね、と私は言う。透の元気な声が聞けたことで私は余裕を取り戻していた。
「……それより美和子、ちょっと頼みがある」
「何?」
 それまで軽い調子だった透の声が、その時不意に真剣になる。私も思わず姿勢を正した。
「救急車呼んでくれ。場所は康神山の第三カーブの下って答えればいい。じゃ、頼んだ」
「え?」
 早口に言い切って電話は切れる。かた、と小さな音がした。
 しかしふと気づくと私が手にしていたのは携帯電話でなく糸電話で、しかもその糸は途中で切れていた。さっきの音はこの所為だったらしい。逆側の紙コップが床に落ちたのだ。
 私は暫く呆然としていた。どう考えても、夢を見ていたとしか思えないけれど、だけど……夢で片付けるには事態が緊急すぎた。
 ――数分の逡巡の後、結局私は一一九番に電話した。透は康神山の第三カーブの崖の下で発見され、直ちに病院に搬送された。

 松葉杖の透は脚をギプスで覆われているが、顔色もいいし結構元気そうだった。崖の下に落ちたにしては驚異的な軽傷だったらしい。
「悪い悪い。ちょっとスピード出しすぎた」
 雨になってきたから慌てて帰ろうとして失敗したんだ、と透は弁解した。
「それにしても、よくあんなとこに救急車が来たもんだ。通報してくれた人に感謝だな」
「……は? それ、私だけど?」
「え?」
 どうも話が通じてない。
「透が電話くれたじゃない。救急車呼べって」
 そうして私がそのときの顛末を話すと、透は少し困ったような顔をして微笑んだ。もしかすると脚が痛んだのかもしれないけど。
「ああ――あいつか」
「あいつ? ……誰?」
「糸電話の向こうのやつ、さ……」
 私は多分何のことやらわからない、という顔をしていたのだろう。透は苦笑して話し出した。
「母親の具合が思わしくなくてさ、俺が田舎の婆ちゃんに預けられたことあったろう。いきなり移ったから友達もいないし、電話もあんまりかけさせてもらえなかったから寂しくて、美和子とよく遊んだ糸電話をいつも持って歩いてたんだ」
 ある時たまたま紙コップの受話器を耳に当ててみると、向こうから声がしたのだという。それは私の声だったそうだ。
「ま、流石に美和子じゃないのはわかってたけど。ともかくあの半年はそいつが友達でね。元の家に戻ったら声も聞こえなくなったし、美和子の方ももう糸電話には飽きてたみたいだったから、ずっと出さなかったんだ」
 なのにあいつ、助けてくれたんだな。
 呟いた透は少し寂しそうだった。
「作り直したら? 駄目で元々だけど」
「そうだな、何もしないよりいいよな」
出来たらまたその向こうの誰かに繋がったらいいと思う。私は是非、透を何度も助けてくれたその誰かにお礼を言いたい。……でもその代わり、私は別の言葉を口に出した。
「――お帰り。透」
「ん? あ、ただいま」
 嵐に洗われた我が家の庭は真新しい緑に満たされていた。本当の新生活は今から始まる――そんな気がした。

 結婚後六年、未だに時々糸電話で喋る私たちを、二人の小さな子供たちは不思議そうな顔で見る。今はまだ早いけれど、いつか子供たちが糸電話を壊さないで扱えるようになる日を、私たちは密かに、心待ちにしている。
 糸電話の糸の向こう、遠く離れた五人目の家族は、今日も私たちと共にある。




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