おとうと。

 大学から帰り、マンションの自分の部屋の鍵を開けた。
 すぐに見えるのは短い廊下と台所。奥には閉まったままの引き戸――その向こうには居室部分がある――。
 靴を脱ぎ、誰に見せる訳でもないが一応揃えて、私は部屋に上がった。引き戸を開けて声を掛ける。
「ただいま、拓人」
 返事はない。でも心配はしない、いつも通り眠っているはずだから。
 ベッドの上にバッグを放り投げて振り返ると、拓人は思った通り、ベッドの真向かいの事務机の上にちょこんと座っていた。
 拓人とは私の弟の名である。今現在十四歳差、親子ほども歳が離れたとまでは言えないが、兄弟としては随分離れている。
 電気を点けて彼を起こすと、少しして拓人は「お帰りなさい、お姉ちゃん!」と明るい声を上げた。
「ただいま」
 応じながら微かに笑みが零れる。
「今日は何しようかねー。将棋か碁か……」
 何だか年寄りの手慰みみたいなラインナップだが、それくらいしか出来ないのだからしょうがない。私はアクションだのRPGだのといった、いわゆる普通のテレビゲームの類が致命的に苦手だし、拓人もあまり長時間はできないらしい。できてもごく簡単な将棋か、囲碁か、あるいはトランプくらいのものだ。
 取り敢えず私は将棋を選んだ。これだと私にも勝ち目はある。私は真剣な顔をして取り組むが、拓人は一体どう思っているのかちょっとわからない。
 ……暫くの間はそれらのゲームも、それなり程度には面白かった。だが時計の針が回るにつれ、それにも次第に飽きてくる。
「ゲームセンターでも行こうか……」
 まあ、いつものコースではあった。
 結局ゲームセンターでも、私がまともに他人とやって勝てるゲームなどろくに存在しないので、大抵はすぐに出てしまうのだけれども。
 で、今日も、例外ではなかった。
「……廃だね、廃」
 負け惜しみを呟きながら私はその場を後にした。廃とは廃人のこと、廃人同然になるまで一つのゲームに入れ込んでいるからそんなに強いんだ、という意味だ。が、誰かに突っ込まれるまでもなく、明らかに私と拓人が弱すぎるに違いなかった。
 まあ、日々の生活を犠牲にしてまで、ゲームに強くなろうとも思わないが……。

 次は服を見てみようということになった。これもいつものルートである。
 だが、親からの仕送りメインで生活している私にそうしょっちゅう服を買う余裕はない。だからウインドウを覗き込んで、値段に吃驚するくらいが精々だ。文字通りのウインドウショッピング。ディスプレイの煌びやかな衣服なんて私にはあまりに遠い。
「ああ、これいいかも」
 拓人が着たらきっと似合うだろうと思う服があったのだけれど、もちろん買うことはしない。拓人が欲しがる筈もないし。
 それどころか拓人はそろそろ疲れてきたらしく、「ねえお姉ちゃん、そろそろ帰ろうよ」とばかりに幾度も呼びかけてくる。立て続けにこうして呼びかけてくるのは余裕のない証拠。
「ああ、わかったよ。じゃあそろそろお終いにしよう」
 私は笑って頷いた。

「お休みー、お姉ちゃん」
「うん、お休み拓人。また明日」


 ……画面から光が消えるのを待って、私はパソコンの前から立ち上がった。
 パソコンに固有名をつける人種がいる。そして私もその一人だ。
 私のパソコンの名は、拓人という。
 十年前に交通事故で亡くした弟の名前である。因みにこのパソコンは彼の形見分けで貰った、当時の最新鋭機だった。声は幼い頃のビデオから苦労して取り、事あるごとに聞けるように設定してあった。
 だからこそ、この子は愛機だったのだけれど……十年前の最新鋭なんて旧世代もいいところなのは、秒進分歩のこの業界では言うまでもないことだ。
「いい加減エラーも出るし……買い換えなきゃ駄目かな」
 私は首を振って肩こりを振り払い、目を揉み解した。
 何だか疲れてしまった、今夜はピザでも取ろう。
 独り暮らしでも食べきれるSサイズのピザを。




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